聖 書: ヨハネ21章15節~17節
(15) 彼らが食事をすませると、イエスはシモン・ペテロに言われた、「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、わたしを愛するか」。ペテロは言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に「わたしの小羊を養いなさい」と言われた。
(16) またもう一度彼に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。彼はイエスに言った、「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を飼いなさい」。
(17) イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
J・ウエスレーは1735年アメリカのジョージアへ行く途中に、モラヴィア兄弟団の存在を知り、生活を共にしてモラヴィア兄弟団の敬虔主義の影響を強く受けました。航海中の嵐の中で平安を保ち、神を賛美する姿に感動したのです。1738年アルダスゲートでモラヴィア兄弟団の宣教師P・ペーラーの信仰義認の説教を聞いて、信仰の確信を得、第二の回心とも言うべき体験をしたのです。このモラヴィア兄弟団の監督として知られるのがツィンツェンドルフ伯爵です。1722年モラヴィアにおける信仰的な迫害から逃れてきたフス派、敬虔派、兄弟団の群れを伯爵は自分の領地に受け入れ、そこにヘレンフート(主の守り)と呼ばれる共同体が形成されました。伯爵は若い頃、イエス・キリストの磔刑画を見て、そこに「我これをすべて汝のために為す、汝わがためになにを為せしや」と書いてあるのを見て、罪の身代わりとして十字架にかけられたキリストの愛に捕らえられ、命のすべてをキリストに投げだし、献身したのでした。
Ⅰ.わたしを愛するか~わたしの小羊を養いなさい。(15)
テキストの冒頭に「彼らが食事をすませると」とありますから、場面は先回の「ガリラヤ湖の夜明け」の続きであることがよく分かります。楽しい食事がすんで一息ついた頃に、主イエスはペテロに「ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛する以上に、
わたしを愛するか」と声をかけられました。「ペテロ」ではなく、子供の頃から親しんできた「シモンよ」と呼びかけて下さったのです。主イエスのペテロに対する親愛の情の深さを覚えます。ペテロは勢い込んで「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。「あなたはこの人たちが愛する以上に・・」と言われた時、ペテロは「たとい、みんなの者があなたにつまずいても、わたしは決してつまずきません」(マタイ26:33)と豪語したことを思い出したに違いありません。そして主イエスは「わたしの小羊を養いなさい」と言われました。
Ⅱ.わたしを愛するか~わたしの羊を飼いなさい。(16)
主イエスは「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と同じようにお尋ねになりました。ペテロもまた同じように「主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」と答えました。すると主イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と言われたのです。一度目と二度目には違いがあります。一度目は「小羊」であり、二度目は「羊」です。一度目は「養いなさい」であり、二度目は「飼いなさい」です。言葉の上でどう違うのかは余り詮索する必要はありません。ただ主イエスがまず「小羊」と言われたことの中に〔大人よりも幼な子を、大きい者よりも小さい者を、強者よりも弱者を、富める者よりも貧しい者を〕心に留めておられることが私たちに伝わってきます。
Ⅲ.わたしを愛するか~わたしの羊を養いなさい。(17)
主イエスは「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」と三度も同じ言葉で尋ねておられます。さすがのペテロも「心をいためて」、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛いしていることは、おわかりになっています」と答え、主イエスは「わたしの羊を養いなさい」と言われました。三度の同じことを言われた意味はどこにあるのでしょうか。かつてペテロは主イエスを三度も否みました。しかし復活の主に出会った後は〔イエスを三度も愛する〕と告白するペテロに造り変えられていたのです。これによって彼は〔後ろ髪を引かれることなく〕大胆に主イエスに従い、羊を養う者となることができたのです。
主イエスは私たちにもペテロと同様に「わたしを愛するか」と尋ねておられます。あなたはどのような返事をされますか。「私があなたを愛することは、あなたがご存じです」とお答えすると共に、主イエス様の羊を養う者とさせて頂きたいものです。