聖 書:ピリピ人への手紙2章12節~18節

(12) わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい。(13) あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。(14) すべてのことを、つぶやかず疑わないでしなさい。(15) それは、あなたがたが責められるところのない純真な者となり、曲った邪悪な時代のただ中にあって、傷のない神の子となるためである。あなたがたは、いのちの言葉を堅く持って、彼らの間で星のようにこの世に輝いている。(16) このようにして、キリストの日に、わたしは自分の走ったことがむだでなく、労したこともむだではなかったと誇ることができる。(17) そして、たとい、あなたがたの信仰の供え物をささげる祭壇に、わたしの血をそそぐことがあっても、わたしは喜ぼう。あなたがた一同と共に喜ぼう。(18) 同じように、あなたがたも喜びなさい。わたしと共に喜びなさい。

 「スウェーデンのストックホルムで開かれた100年前の五輪に日本は初参加した。マラソンの金栗四三は疲労困憊して途中で倒れ、民家で介抱されるうちに行方不明扱いになった。時は流れて、当地の五輪委は55年目の祝賀行事に金栗を招く。スタジアムでテープを切ると、『日本の金栗、ただいまゴールイン、タイムは54年と8ヶ月6日5時間32分20秒3。これをもって大会の全日程を終了します』とアナウンスが流れたそうだ。」何事においても、一つのことに精魂を傾けてそれを最後までやり遂げることは人として大切なことであり、尊いことです。
 パウロはピリピの人々に対して「救いの達成に努めなさい」と勧めています。
Ⅰ.「救いの達成」の意味 (12)
 パウロはピリピ教会の人々に「自分の救いの達成に努めなさい」と勧めています。文脈と切り離してこの言葉だけを考えますと、キリストの教えは自力救済のように思われますが、そうではありません。パウロはピリピ教会の不一致の問題を解決するために、キリストのみ心は教会の一致であること、そのための模範がキリストの謙遜と従順と献身であることを教えました。ピリピ教会の人々はすでにキリストによって救われた人々です。この時点における救いは、身体的に言えば、この世に誕生して命を得たということを意味しています。しかしこれは人としての出発であって、到達点ではありません。この後、様々な試練や苦労と闘って人性の坂を乗り越えて、成熟して行かなくてはなりません。信仰面においても同様に成熟のために努めなくてはならないのです。
Ⅱ.「救いの達成」の動力 (13)
 救いは自力で達成するものではありません。それでは他力であるかというとそうでもありません。聖書は「あなたがたのうちに働きかけて、その願いを起させ、かつ実現に至らせるのは神であって、それは神のよしとされるところだからである。」と教えています。神は私たちの救いの達成のために「働きかけて、願いを起こさせ、かつ実現に至らせ」て下さるのです。その中にあって、私たちは[神に従順に従う]ということを通して神と共に働くのです。それは「救いの達成」のために、神の力が不足しているということではありません。私たちの「救いの達成」のための動力は、どこまでも神ご自身にあるのです。神と私たちの関係は力関係ではなく、愛と信頼の関係なのです。ですから「愛する者たちよ、~従順であったように、~いっそう従順でいて、~自分の救いの達成に努めなさい」と、命令ではなく、勧めておられるのです。
Ⅲ.「救いの達成」の努めと喜び (14~18)
 パウロは「救いの達成」のために果すべき努めとその喜びを記しています。
 1.努め:①すべてのことを、つぶやかず、疑わないでしなさい。
      ②いのちの言葉を堅く持つ。
      ③信仰の道を最後まで走り通す。
      ④信仰の供え物をささげる。
 2.喜び:①責められるところのない純真な者となる。曲った邪悪な時代のただ中に あって、傷のない神の子となる。
      ②星のようにこの世に輝く。
      ③再臨の日に労したことが無駄ではなかったと誇ることができる。
      ④喜びを共にすることができる。
 私たちは1%に満たないキリスト者として選ばれ、尊い救いに与っていることは何という光栄なことでしょうか。共に救いの達成に努めさせて頂きましょう。