聖 書 マタイによる福音書7章24~27節

24 それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。
25 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけても、倒れることはない。岩を土台としているからである。
26 また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
27 雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。

金 言 
それで、わたしのこれらの言葉を聞いて行うものを、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができよう。(マタイ7:24)
 大きな地震が起きると、ビルや家が埋もれ倒れたり、下水管などが道路から浮き上がったりする「液状化現象」が起こりました。この現象は、もともとは海や池、沼、川などであった場所に土砂を入れて造った埋立地で発生しやすいのが特徴です。建物はどこに家を建てるかがとても大切です。今日の聖書箇所では2つの家は同じような災害に見舞われました。しかしその被害には大きな差がありました。片方はびくともしませんでした。もう一方はひどい壊れ方でした。どうしてこんなに結果が違ったのでしょう。
1.2つの家の違い
 最初の家は岩の上に家を建てました。賢い人は家を建てるなら岩の上だと決めていました。それで苦労して岩の上までたくさんの建材を何度も持ち上げました。この人は建てる前に「地面を深く掘り、岩の上に土台をすえて」(ルカ6:48) という基礎工事をしています。「地面を深く掘り」とあります。電気ドリルなどない時代ですから、堅い岩盤をつるはしでコツコツと地面を深く掘り下げたのでしょう。土台は地上に家が建つと目には見えない部分ですが、建物を支える大切な役割を果たします。ちなみに最近話題のスカイツリー(高さ634m)は、地下50mまで掘って土台を造ったそうです。賢い人は人の目には触れることはない建物の基礎である土台づくりを何日もかけて準備しました。けれどその労苦はちゃんと報われたのです。「洪水が押し寄せ」ても、岩の上にある家には大水による被害が及びませんでした。岩の上に建てた家は風をさえぎる物が少ない場所に建てられた家なのに、「風が吹いて家を打ちつけても」(25)強風にビクともしませんでした。もう一人の愚かな人は砂の上に家を建てました。この人は基礎工事など面倒だし家が建ってしまえば人目は引かないと軽視して、いきなり建物を砂の上の敷地に建て始めました。しかしその結果は無残です。雨が降り、洪水が押し寄せ、強風にさらされると、ひとたまりもなくペシャンコに潰れてしまいました。しかもその倒れ方はひどかったのです(27)。ここでたとえている家とは何ですか。それは信仰者自身です。では洪水や大風とは何を指していますか。それは信仰者を襲う人生の困難、試練、誘惑です。人生は春や秋のような穏やかで過ごしやすい日々ばかりではありません。台風や大雨、日照りはあり、寒冷地なら豪雪もあります。被害の違いは外観ではなく、その家を建てた場所とその家の基礎工事が問題でした。
2.確かな人生の土台
 主イエスは岩の上に家を建てた人とは、みことばを聞いて「行う人」であり、砂の上に家を建てた人は、みことばを聞くが「行わない人」だと言われました。みことばという土台にしっかりと深く根ざしている人は、みことばとその人の人生が土台と岩の関係のようにがっしりと結ばれています。日本人は英語の読解力や文法は英語圏以外の他国に引けを取らないようです。しかし実際の会話になるとまだまだ「話せない」というコンプレックスが根強いです。一つの原因は日常生活に英語を使う機会がないからだと言われます。英単語や文法をたくさん知っていても、自分の生活の中で英語を使うことがなければ一向に上達はしません。みことばもこれと同じではないでしょうか。みことばを聞いて「あぁ知っている」と心に思った人も、そのみことばを実践しない人は、砂の上に家を建てた人のようです。試練という大風や洪水が来ると足元をすくわれ倒れてしまいます。それと反対にみことばを行う人とは、みことばを生活に適用できることです。私たちはみことばを信じることから、一歩踏み出して「みことばを行うクリスチャン」となるべきです。みことばを聞いて行わない人とは「私に向かって『主よ、主よ』という者です。口先では主をあがめても、みことばを行うことはしない」(ルカ6:46)人です。その差は普段の日はわかりません。洪水や大風によってその真価がわかります。信仰者の人生にも思いがけない時に試練がやってきます。でも日頃からみことばを聞いて行っていれば、どんなに厳しい環境にさらされても家が倒れることはありません。