聖 書:ピリピ人への手紙2章6節~11節

(6) キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
(7) かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
(8) おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
(9) それゆえに、神は彼を高く引き上げ、すべての名にまさる名を彼に賜わった。
(10) それは、イエスの御名によって、天上のもの、地上のもの、地下のものなど、あらゆるものがひざをかがめ、
(11) また、あらゆる舌が、「イエス・キリストは主である」と告白して、栄光を父なる神に帰するためである

人は先人から多くのことを学ぶことを通して成長します。それらの多くは身近な家族を初めとして、学校の先生や会社の上司や友人、更には書籍を通して出会う歴史上の人物などが模範となり、手本となります。このような模範となるべき人々を持つことは豊かな人生を送る上で重要な要素となります。
 
Ⅰ.模範の必要性
ピリピ教会に対するパウロの願望は「キリスト者の一致」でした。それはキリスト者のあるべき姿であり、麗しい人間関係の基本でもありました。パウロは具体的に「へりくだった心をもって互に人を自分よりすぐれた者としなさい。おのおの、自分のことばかりでなく、他人のことも考えなさい。キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい」と勧めたのです。しかし、いくら高度な倫理道徳を伝えるだけでは、聞いた人々は頭では理解できても、実際に行動に移すことは至難の業です。そこでパウロはそのために必要な模範を、キリストの生涯に求めたのです。本日のテキストは私たちキリスト者にとっての最高の模範であり、新約聖書における最もすぐれた感動的な箇所です。
Ⅱ.模範の本質
 ここに7つの模範(七段の謙遜)が記されています。
1.「キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは 思わず」=この「かたち」とは、物事の本質的な、決して変化しない性質、つまり「キリストの神性」を意味しています。キリストはこの本質さえ、「固守すべき事」とは思われなかったのです。
2.「おのれをむなしうして」=バークレーは[入れ物が空っぽになるまで]と説明しています。
3.「僕のかたちをとり」=僕とは奴隷を意味する言葉です。この場合の「かたち」も本質的な意味を持つ言葉であり、「キリストの人性」を表しています。
4.「人間の姿になられた」= キリストは人間と同じ者になられたのです。聖書は「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないようなかたではない。罪は犯されなかったが、すべてのことについて、わたしたちと同じように試錬に会われたのである」(ヘブル4:15)と記しています。
5.「おのれを低くして」=キリストは王侯貴族ではなく、最下層の人間として生涯を歩まれました。その生涯は底なき謙遜と奉仕の生涯でありました。
6.「死に至るまで」=イザヤは「死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし」(53:12)と預言しています。
7.「十字架の死に至るまで」=[死にも色々ありますが、最も苦しく最も恥ずべき最も恐ろしい十字架の死をさえお受けになられました](笹尾)。」(ガラテヤ3:13)。
Ⅲ.模範の目的
 キリストの模範の目的は「あらゆる舌が、『イエス・キリストは主である』と告白して、栄光を父なる神に帰するため」(11)でありました。バークレーは[主のご生涯中に示された特色は、謙遜と従順と献身とであった。主は人間に仕えることだけを願われた。主はただ神の道だけを望まれた。主はご自身のすべての栄光を人間のために捨て去ることだけを願われた]と記しています。
もし謙遜と服従と献身とがキリストの生涯の有り様であったとすれば、それらはまたキリスト者のあるべき本来の姿でもあります。キリスト者はどこまでもキリストに従う者だからです。