聖 書 マタイによる福音書6章34節
34 だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
金 言
だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。(マタイ6:24)
東日本大震災以降、余震、竜巻、予測もつかないできごとが私たちの生活を脅かします。現代は複数の違った情報が次々に飛び込んできます。情報過多によって私たちは翻弄され、いったい何をあてにしたらよいのか不安を益々掻き立てます。
Ⅰ.なぜ明日のことを思い煩うことがないのか
聖書は人に「明日を思い煩うな。」となぜ説くのでしょう。その理由は、1.私たちは、明日がどんな日になるのかだれも知る術を持たない「はかない存在」です。ですから明日はどうなるかという思い煩いだけが先行し、明日の備えはある程度まではできても、万全な対処は今日のうちにはできません。2.私たちはどんなに心配したからと言って、背たけを伸ばすことも、一日の寿命を伸ばすこともできません。そのように私たちがあれこれと思い煩っても、結果は思い通りになるとは限りません。結局、私たちは思い煩った分だけ大切な今の時間を無駄に過ごしているわけです。その労力を今日が豊かに過ごせるように用いたほうがどれだけ賢明かわかります。3.思い煩うことで、自分の未来を限定してしまいます。あなたが今思い煩いためらうことで、成し遂げたかもしれない可能性を自分で潰しています。
Ⅱ.神さまが私の明日を心配してくださるから
神さまは私たちに明日の心配まで負う必要はないと言われます。いのちが明日まで生かされているなら、どの道、明日は明日自身が心配するのです。明日の心配に時間と心を費やし過ぎると、どうしても今日を生きる力は削がれていきます。将来への思い煩いがあると、充実した今日を生きて、心から喜んで今日を生きようとする活力は失われ、今日を存分に生きようとする意志を挫かれます。では私たちの心の重荷をどこに下ろせばよいのでしょう。聖書は「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」(Ⅰペテロ5:7)とあらゆる心配事は神さまに委ねることができることを保証しています。なぜなら神さまは私たちのために喜んで重荷を負ってくださるし、神さまにはそれがお出来になられるからです。あれこれと思い煩ったからとしてもその問題が解決したためしはありません。
Ⅲ.一日の苦労は、その日一日だけで十分だから
「その日の苦労はその日だけで十分である。」(新共同訳)めまぐるしい毎日の生活はその日一日に課せられた働きを全うするだけで十分です。ましてや『あなたがたは、あすのこともわからぬ身なのだ。あなたがたのいのちは、どんなものであるか。あなたがたは、しばしの間あらわれて、たちまち消え行く霧にすぎない。むしろ、あなたがたは「主のみこころであれば、わたしは生きながらえもし、あの事この事もしよう」と言うべきである。』(ヤコブ4:14~15)と聖書は言っています。人間を造られたのは神さまです。 人間の歴史をそれぞれの時代に応じて治めて来られたのも神さまです。思い煩いはその神さまに対する人間の不信感の現れと言えます。人が思い煩うのは、自分のことは自分で何とか解決できると過信する心がそうさせるのです。私たちが神さまの愛を疑い、神さまの知恵を疑い、神さまの力を疑うことから、思い煩いは始まります。人間でさえ愛する者を守りたい、支えたい、喜ばせたいと思うのは当然です。それならば、人を愛し人の罪のためなら、十字架で命を捨てる犠牲さえ払われた神さまが、私たちの明日を何としても守ろうと思わないはずがありません。幼子は親の愛を微塵にも疑うことがありません。父なる神さまが私たち神の子たちを日々養われると信じて、全面的に頼り何もかもあてするべきです。その上で与えられた今日を精一杯生きるべきです。まず今日のいのちを感謝して大切に生きることで、はじめて豊かな明日が築かれるのです。私たちは神様の許しがあってこそ、明日も生きることをゆるされる身なのですから。思い煩いからの解放は、神さまを信頼して何でも祈ることです(ピリピ4:6)。