聖 書:ピリピ4章4節~7節

(4) あなたがたは、主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい。
(5) あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい。主は近い。
(6) 何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい。
(7) そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。

 9月を迎え、夏の暑さも一段落したように思われます。今夏は不思議に蝉の声を聞くことができました。毎年鳴いていたのでしょうが、聞く余裕がなかったのかも知れません。ふと松尾芭蕉の名句「閑さや 岩に沁み入る 蝉の声」を思い出しました。山形県山寺立石寺において詠んだものです。物音一つ聞こえない静けさの中で、蝉がけたたましい声で鳴く声でさえ、岩に沁みるように覚えて、より一層山寺の静寂さが際だっていることを詠んだものでしょう。
 かつて弟子たちはイエスと共に舟に乗っていた際に突風に出会い、舟は沈みそうになりましたが、「イエス自身は、舳の方でまくらをして、眠っておられた」のです。
 
Ⅰ.キリストの遺産としての平安 
主イエスは十字架にかかられる前に「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな」(ヨハネ14:27)と遺言されました。[キリストの平安]は、まさしくキリストの遺産なのです。この世が与える平安は、この世の富や名誉や身分などによって裏付けられるものであって、それらは「世と世の欲とは過ぎ去る」(Ⅰヨハネ2:17)とあるように、いつ失うかも知れないはかないものです。それに引き替え、キリストの遺産としての平安は、この世限りのものではなく、時空を越えた天国にまで通用する平安なのです。
Ⅱ.「主にあって」与えられる平安
「主にあって」という言葉にはまず、主イエス・キリストと人格的に結ばれた[私]が存在します。次に、主に結ばれた者同志としての[私たち]が存在します。前者は縦の結びつき、後者は横の結びつきです。パウロはキリスト者に対して「主にあっていつも喜びなさい。繰り返して言うが、喜びなさい」(4)と勧めています。また、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(Ⅰテサロニケ5:16-18)と勧めています。このように「喜び」はキリスト者のトレードマークなのです。「主にあって」ということの中に、私たちはこの世の与える平安とは根本的に異なる「平安」が与えられているのです。この事実にしっかり立脚していると、おのずから「平安」に満たされ、喜びにも満たされるのです。喜びに満たされれば、心は豊かな平安に満たされるのです。次に「あなたがたの寛容を、みんなの人に示しなさい」(5)と勧めています。「寛容」とは[長い、長い忍耐]を表す言葉です。その反対は[短気であり、審判]です。前者は平和を実現し、後者は争いを招くのです。主のご再臨が近い今日、私たちキリスト者にはすべての人と相和することが求められているのです。
Ⅲ.祈願によって与えられる平安
私たちとキリストの関係は「主にあって」の関係です。その関係は気むずかしい他人行儀なものではなく、ごく気さくな親しい関係です。ですからいつでも困ったとき、不安な時は、「何事も思い煩ってはならない。ただ、事ごとに、感謝をもって祈と願いとをささげ、あなたがたの求めるところを神に申し上げるがよい」(6)のです。これまで私たちは幼子のようになって祈ったことがあるでしょうか。主はいつも私たちの祈願を待っておられます。「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう」(7)と約束して下さっています。
[咎めなき良心は巨万の富にまさる]と言われます。また聖書は「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい」(コロサイ3:15)、「平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように」(Ⅰテサロニケ5:23)と教えています。