聖 書 マタイによる福音書9章35~38節

35 イエスは、すべての町々村々を巡り歩いて、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、あらゆる病気、あらゆるわずらいをおいやしになった。
36 また群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて、倒れているのをごらんになって、彼らを深くあわれまれた。
37 そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。
38 だから、収穫の主に願って、その収穫のために働き人を送り出すようにしてもらいなさい」。

金 言 
そして弟子たちに言われた、「収穫は多いが、働き人が少ない。」  (マタイ9:37)
 季節は実りの秋、収穫の秋を迎えています。黄金色に色づく稲や完熟の果物がたわわに実る木を見ると、わたしたちの心も豊かになり嬉しくなります。植物が夏に生長するように、クリスチャンは夏にキャンプや修養会で成長して、秋には自然界だけでなく教会にも収穫の喜びが溢れる季節となることを願いましょう。
1.惜しみなく働かれるイエス
 マタイによる福音書では9章までの活動は、主イエスを中心に進められてきました。「イエスはすべての町々村々を巡り歩いて」(35)とあるように、ガリラヤ地方の町や村をあちらこちら精力的かつ丹念に訪ねて回りました。その地での主イエスの活動は三つに集約できます。まず会堂で「教え」次に御国の福音を「宣べ伝え」、そしてあらゆる病気を「おいやしになった」(35)のです。ご自身の地上での限られた時間を惜しみなく人々にために費やして働かれました。しかし十章の始めで主イエスは十二弟子を選出されます。御国の働きは、主お一人で完成されるものではありません。なぜなら主イエスも地上においては同時に複数の場所にはおれませんでしたし、やがてはこの世を去って行かれるからです。主イエスの働きを継承していく人々によって、さらに宣教を拡大して行く必要がありました。
2.羊をあわれまれるイエス
 主イエスがどこに行かれてもそこで出会った群衆は「飼う者のない羊のよう」(36)でした。羊には敵から身を守る牙や鋭い爪、甲羅もなければ、敵から逃げる跳躍力や俊足もありません。ですから羊を外敵から守り、必要な水や草を与え、安全に養い育てる羊飼いが必要なのです。動物のなかで羊ほど弱く迷いやすいものはありません。飼い主が世話をしなければ一日たりとも生きてはいけません。当然、羊飼いがいない羊は死の危険にさらされます。主イエスがご覧になられたガリラヤの民衆の姿は、まるでそのような羊に似ていました。そのたとえは旧約聖書のエゼキエル34章にも登場します。羊は「弱り果てて、倒れている」(36)の原義は、弱り果てるが「皮を剥がれる」で、倒れているは「打ちのめされている」とどちらも悲惨な状態を現しています。このような状態の民衆を主イエスは深くあわれまれました。ここで使われたことばは、あわれみをあらわす一番強い意味があります。腸(はらわた)をえぐられるような強い衝動にかられたことを現すことばです。身がよじれるような痛みとは神から遣わされたメシア特有の深いあわれみでした。
3.収穫のために働く人になる
 「収穫は多いが、働き人が少ない」(37)。収穫とは御国への収穫です。麦を選んで倉に収めるように、人々を神の国に招くことです。収穫は多いとは御国に入る準備ができている人が大勢いることです。ですが「働き人が少ない」。つまり人々を御国に入れるために助け導く人々が足りないのです。主イエスが良き羊飼いとして来られたのに、羊飼いに導く働き人が不足しているのです。「だから、収穫の主(神)に願って、働き人を送り出すようにしてもらいなさい。」(38)。新改訳ではここを「祈りなさい」と訳しています。宣教の推進力は「祈り」によって前進していきます。収穫のために働く人とは、牧師や宣教師といった専任の伝道者だけではなく、救われたクリスチャンすべての人を指します。彼らはそれぞれが自分に与えられている賜物をもって、お互いが与えられた持ち場で働きます。すべての人は神様から才能、時間、チャンス、富、エネルギーなどを与えられているのですから、それらをフルに活用して神様から託された「刈り入れ」を使命として生きることです(ヨハネ4:35)。あなたの近くにも失われた魂、弱り悩む羊が必ずおられます。自分の近親者、友人が救われて御国の民となり、神の愛に生きる家族に加えられるよう、熱心に祈り教会の一人ひとりが収穫のために働きましょう。