聖 書:コロサイ人への手紙1章1節~8節

(1) 神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、(2) コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。(3) わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。(4) これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。(5) この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。(6) そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。(7) あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエペフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、(8) あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。

 ハーバート・クラック(1960年箱根ケズィック講師)が著したコロサイ書の題名は[わがすべてなるキリスト]です。彼はその中で次のような言葉を紹介しています。[多くの人にとって、イエスは全く何ものでもありません(Nothing)。ある人々にとって、イエスは何かであります(Something)。しかし、ごく僅かの人にとって、イエスはすべてであるのです(Everything)]。
イエス・キリストの教えである「福音」は、[幸福な音信(Good News・良い知らせ)]を意味しています。テキストにも「福音の真理の言葉」(5)、「福音は、・・実を結んでいる」(6)、「福音を・・学んだ」(7)とあります。つまり、[福音は言葉であり、命であり、学ぶべきもの]なのです。更に大切なことは、「福音」はイエス・キリストの単なる[教え]ではなく、[人格とみ業からなる存在そのもの]なのです。「福音」は私たちの存在や人格や生涯と関わるものとなり、その中核とも言うべき[信仰・愛・希望」を私たちに与えて下さるのです。その意味でキリストは私たちの[すべてである]お方なのです。
Ⅰ.キリスト・イエスに対する信仰
 コロサイ教会はピリピ教会と違ってパウロ自身が始めた教会ではなく、信徒であるエパフラスが中心となって出来た家の教会であると考えられます。歴史上の教会は様々な問題と戦ってきました。コロサイの教会も決して例外ではなく、異端問題と戦っていました。そうした教会を励ますためにパウロは[福音の豊かな恵み]について彼らの注意を喚起しています。この「福音の恵み」は、私たちの生涯(過去・現在・未来)にも大きく関わり、私たちの存在(霊・心・からだ)にも広く及んでいるのです。
 パウロはコロサイの状況を察知する中で、彼らのために祈り,感謝しています。その一つが「信仰」です。新改訳は口語訳と同じですが、新共同訳は「キリスト・イエスにおいて持っている信仰」、英欽定訳は「faith in Christ」、直訳すれば[キリストの中にある信仰]です。[信仰の対象としてのキリスト]と言うよりも、自らを[キリストの中においている信仰]です。キリストの深い愛の懐に抱かれた霊魂の豊かさを覚えます。
Ⅱ.すべての聖徒に対して抱いている愛
 信仰が過去からの継続した事実であるとすれば、愛はお互いの現在・現実の中で起きている事実です。また信仰がお互いの存在の土台に位置しているとすれば、愛は土台の上に築かれた麗しい楼閣と言えるのではないでしょうか。この[愛]は言うまでもなく、
利己的な愛ではなく、他者のためにはいかなる犠牲をも惜しむことなく、徹底して与える聖愛(アガペー)です。コロサイの人々はこのような愛を抱いていたのです。これはまさしく[キリストの中にある信仰]から生み出された麗しい果実であり、生命そのものであります。しかも彼らの愛は、ある限られた者に対するものではなく、「すべての聖徒に対して抱いている愛」でありました。ここに人としての心の豊かさを覚えます。
Ⅲ.天にたくわえられている望み
 信仰が土台であり、愛が楼閣であるならば、[望み]は天高くそびえ、神の御国まで届くところの天蓋と言うべきでしょう。聖書における「信・愛・望」は、キリスト者生涯を支え、貫くところの三本柱です。これは三位一体の神のように、三つのものが渾然一体となって私たちの信仰生活を支え、生涯を守り導いてくれるのです。この[望み]は単なる希望的観測ではなく、キリストの復活によって確証され、「天にたくわえられている」ものなのです。やがて私たちの体は復活し、いつまでも主と共に生きるのです。ここにたとえ病気であっても、これに勝利することが出来るからだの豊かさを覚えます。
 この確証された希望の故に、戦いの中にありつつも信仰と愛の生活を営むことが出来るのです。私たちも「福音の豊かな恵み」を満喫する者とさせて頂きましょう。