聖 書:イザヤ書9章1節~7節

(1) しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与られたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。(2) 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。(3) あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。(4) これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。(5) すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。(6) ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。(7) そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもって/これを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

 イザヤはキリスト降誕700年も前に「ひとりのみどりごがわれわれのために生まれた。ひとりの男の子がわれわれに与えられた」と預言しました。キリストはその預言の成就として今から約2千年前にベツレヘムにおいてお生まれになりました。イザヤはそのお方について「霊妙なる議士(Wonderful Counsellor)・大能の神(The mighy God)・とこしえの父(The everlasting Father)・平和の君(The Prince of Peace)」という四つの職分(肩書)を示しています。それぞれに豊かな意味が込められていますが、本日は「平和の君」について考えて見ることに致します。
Ⅰ.平和の神 
 神は初めに天と地とを創造された時に「神は造ったすべての物を見られたところ、それは,はなはだ良かった」(創1:31)と言われました。それは「エデンの園」には、神の平和が満ちていたことを意味しています。しかし残念ながらその平和は、アダムとエバの罪によって崩れてしまいました。その後、歴史は憎悪と争いを繰り返しますが、平和の神はそれ以来「あなたはどこにいるのか」(創3:9)と人々を探し求めておられるのです。聖書は「わたしは恨みをおく、おまえと女との間に。おまえのすえと女の末との間に」(創3:15)とメシヤの来臨を暗示しています。イザヤは「その名は、平和の君ととなえられる」(イザヤ9:6)、エレミヤは「わたしがあなたがたに対していだいている計画は・・・平安を与えようとするもの」(29:11)と預言しています。
Ⅱ.キリストの平和
 イエス・キリストが降誕された聖夜、天の軍勢と御使は「神に栄光、地に平和」と神を賛美しました。キリストの生涯は苦難の連続でしたが、その心は常に平安でした。舟が沈みそうになった時も、「イエス自身は、舳の方でまくらをして,眠っておられた」(マルコ4:38)、湖上歩行されるイエスにおじ惑う弟子たちに「心安かれ、我なり、懼るな」(マタイ14:27・文語)、十字架を前にして心乱れる弟子たちに「心を騒がせないがよい」(ヨハネ14:1)、ユダヤ人を恐れる弟子たちに「安かれ」(ヨハネ20:19)と励まされました。私たちには「わたしは平安をあなたがたに残して行く」(14:27)と約束して下さいました。パウロは「キリストはわたしたちの平和であって、・・神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまった」(エペソ2:14~16)、と宣言し、「神の和解を受けなさい」(Ⅱコリント5:20)と勧めています。
Ⅲ.私たちの平和
 1.あなたがたを全くきよめて下さる。:私たちは自分の行為で「きよめ」を求め、そこに到達したいと努力しがちです。その結果、内省的になりすぎて自分を責め、人を裁くと言う結果を招いています。救世軍のブレングル中将は「きよめ」について「いつでもどこでも神がなせと仰せられるままになし、神がなれと仰せられるままになる、心と生活をいう」と言っています。「わたしはキリストと共に十字架につけられた。キリストが,わたしのうちに生きておられる」(ガラテヤ2:19~20)という危機的経験を経て、漸進的に成熟していくのです。
 2.霊と心とからだとを完全に守って下さる。:人間は「霊と心とからだ」から成立しています。これらが調和した状態が「平和」であると言えます。「霊」とはキリストによって再創造された「永遠の命」、「心」とはキリストに倣って与えられた「きよき品性」、「からだ」とはキリストの復活によって約束された「霊のからだ」を意味しています。
 3.責められるところのない者にして下さる。:聖書は「一度だけ死ぬことと、死んだ後さばきを受けることとが、人間に定まっている」(ヘブル9:27)と教えています。やがて私たちはこの世を去り、キリストの再臨によって神のみ前に立ち、最後の審判に与ります。そのために私たちは心配する必要はありません。平和の神ご自身が責められない者にして下さるのです。