聖 書:マタイ5:43~48、5:9
(43) 『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
(44) しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
(45) こうして、天にいますあなたがたの父の子となるためである。天の父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、正しい者にも正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。
(46) あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて、なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。
(47) 兄弟だけにあいさつをしたからとて、なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。
(48) それだから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
( 5:9) 平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。

日本イエス・キリスト教団が毎月発行しているベラカを見ますと一月の特集は「平和を願って」です。世界の人々は平和を求めています。けれども彼らの願いとは違って平和ではありません。このような状況の中で神様が私達に求めておられることは何でしょうか。マタイ5章には平和と関係ある内容が多いです。5章9節は平和の大いなる命令です。それに基づいて具体的な適用が後ろに出てきます。たとえば、21-26節の「まず行ってその兄弟と和解し」、38-39節の「悪人に手向かうな」、43-48節の「敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。これらの箇所を見るとこの世が言っている平和と聖書が言っている平和と何かが違います。何がどのように違うでしょうか。
1.この世の平和
 43節の「 隣り人を愛し、敵を憎め」。これがこの世が言っている平和です。この世が言っている平和は以下のような特徴があります。
(1〉制限された平和
(2〉分離された平和
(3〉一時的な平和
(4〉誰でも出来る偽りの平和
(5〉平和に関する人々の錯覚
2.イエス様の平和
 マタイ5章にある平和の特徴は以下の通りです。
(1〉平和をつくり出すためには自我が死ぬとき可能
 9節は「平和をつくり出す人たちは、神の子と呼ばれる」、45節は「 天にいますあなたがたの父の子となるためである」と書いてあります。平和をつくり出す人は神の子です。神の子がしなければならない第一の使命は十字架を背負うことです。神の子であるイエス様の第一の使命は代わりに十字架を背負うことでした。十字架によって神と私達を和解させました。私達も自分の十字架を背負うとき平和があります。私達にとって十字架は自我が死ぬことです。自我が死んで平和をつくり出す人が神の子です。自我が生きているところには平和はありません。毎日自我が十字架で死なないと日々の平和はありません。
(2〉平和をつくり出すためには信仰が必要。
 43節「『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである」。人々は『隣り人を愛し、敵を憎む』ことを聞いて、それを信じています。
 人々は聞いて、信じている通りに生きるのです。ところで聖書の教えはいかがですか。「しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ」。「敵を愛し、迫害する者のために祈る」人は神の子となると主は約束されました。この約束を信じないと 「敵を愛し、迫害する者のために祈る」ことは出来ません。人間の本能はどうすれば損をしないかを工夫しています。しかし神様が私達に与えて下さった使命は「あなたが代わりに十字架を背負って損をし、平和をつくり出しなさい」です。その人が神の子と呼ばれます。
 人々の最大の関心事はいつまでも保障出来る経済的な安全と、いつまでも保障出来る外部からの攻撃がない安全を得ることです。イエス様を信じている私達の関心事は何でしょうか。どうすれば平和をつくり出す神の子どもとして生きるかです。神様は私達を平和の道具として用いて下さろうとしています。私達は平和をつくり出す人になるために訓練しています。