聖 書 テトスへの手紙2章11~14節
11すべての人を救う神の恵みが現れた。
12そして、わたしたちを導き、不信心とこの世の情欲とを捨てて、慎み深く、正しく、信心深くこの世で生活し、
13祝福に満ちた望み、すなわち、大いなる神、わたしたちの救主キリスト・イエスの栄光の出現を待ち望むようにと、教えている。
14このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。
金 言
「このキリストが、わたしたちのためにご自身をささげられたのは、わたしたちをすべての不法からあがない出して、良いわざに熱心な選びの民を、ご自身のものとして聖別するためにほかならない。」(テトス2:14)
聖書は「きよくならなければ、だれも主を見ることはできない」(ヘブル12:14)と教え、また「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。」(ヘブル6:1)と教えています。小島伊助は「きよめの三大動機」として次のように言っています。第一は「召された方がきよいお方である」、第二は「そのためにキリストの尊い血潮が流されている」、第三に「イエスは再び来られる」。
「きよめ」についてはいろいろな用語が使用されています。「全き愛」、「キリスト者の完全」、「聖化」、「聖霊のバプテスマ」、「第二の転機」、「全き救い」などがあります。
きよめの内容について、救世軍のブレングル中将は「聖潔とは、いつでも、どこでも、神がなれと仰せられるままになり、なせと仰せられるままを行う所の、心と生活とをいうのである」と言っています。
Ⅰ.位置的きよめ
人間は罪人です。たとえ救われた者でも、救われた罪人に過ぎません。倫理や道徳として相対的にきよい人になることは出来ます。しかし神が求めておられるのは絶対的な「きよめ」です。ですから私たちを聖別するためにキリストを十字架におかけになったのです。私たちは罪を悔い改めキリストに対する信仰によって、闇から光へ、滅びから命へと転換されたのです。このことを位置的きよめと呼びます。
1.きよめの手段
キリストは「わたしたちのためにご自身をささげられた」のです。
2.きよめの必要
キリストは「私たちをすべての不法からあがない出して」下さったのです。
3.きよめの目標
キリストは「良いわざに熱心な選びの民」として下さったのです。
4.きよめの目的
キリストは「ご自身のものとして聖別」して下さるのです。
Ⅱ.初時的きよめ
私たちが経験する救いの最初の恵みは「罪のゆるし」、「新生」と呼ばれます。
聖書には「すべての人を救う神の恵みが現れた」と記されています。丁度新生児が母胎から出て、人としての営みの第一歩を歩み出すように、霊的新生児は神の命に与り、キリスト者としての生涯の一歩を踏み出すのです。この時点の経験を初時的きよめと呼びます。
Ⅲ.漸進的きよめ
「罪の赦し・新生」を経験したキリスト者は次の段階として「聖化・きよめ」の生涯へと成長、成熟していきます。そうしたきよめられたキリスト者の生活の在り方を聖書は次のように記しています。
1.捨てて
まず「捨てる」ことから始まります。不信心とこの世の情欲とを捨てるのです。それは離れること、関係を断つことを意味しています。一番捨てにくいもの、離れにくいものは「自己中心・自我性」なのです。
2.つつしみ深く
これは自己と関わる高慢からきよめられることです。
3.正しく
これは隣人と関わる不正や不親切からきよめられることです。
4.信心深く
これは神と関わる不信からきよめられることです。
5.待ち望む
これはこの世との関わりからきよめられることです。
新生児は順調に成長するものではありません。幼児期において様々な病気を経ることによって強くなって行きます。霊的生命も同様であって、様々な試煉や困難を経験して強くなって行くのです。その間にあって最大の関門は「自我性」との戦いです。その経験には個人差がありますから一様に述べることは出来ません。唯、確かなことは、人生の一切の主導権を自己から神へ返還すること、全き信頼と服従へと飛躍すること、キリストと共なる死と復活の経験に入ること、などを通して新しい信仰の境地へと前進していくのです。こうした経験を「聖霊のバプテスマ」、「聖霊の満たし」、「内住のキリスト」という言葉で表されます。この経験を経て、私たちはどのような状況の中にあっても、いつも御霊に満たされた生活へと導かれて行くのです。