聖 書:コロサイ3:5~13

(5) だから、地上の肢体、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪欲、また貪欲を殺してしまいなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。
(6) これらのことのために、神の怒りが下るのである。
(7) あなたがたも、以前これらのうちに日を過ごしていた時には、これらのことをして歩いていた。
(8) しかし今は、これらいっさいのことを捨て、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を、捨ててしまいなさい。
(9) 互にうそを言ってはならない。あなたがたは、古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、
(10) 造り主のかたちに従って新しくされ、真の知識に至る新しき人を着たのである。
(11) そこには、もはやギリシヤ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開の人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにいますのである。
(12) だから、あなたがたは、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者であるから、あわれみの心、慈愛、謙そん、柔和、寛容を身に着けなさい。
(13) 互に忍びあい、もし互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい。主もあなたがたをゆるして下さったのだから、そのように、あなたがたもゆるし合いなさい。

 世の中にはいろいろな法則があります。「法則とは、ある物事と他の物事との間に一定の関係がある(またはあるらしい)ときに、その関係をさす言葉である」と言われています。こうした法則はあらゆる世界において存在し、自然法則と道徳法則に大別することができます。良く知っているのは「引力の法則」や「マーフィーの法則」などです。英語で法則のことを「law」と言いますが、これはlay(置く、整える)の過去分詞です。そうしたことから「神によって置かれたもの、整えられたこと」つまり、神によってセットされたものが法則と見なされてきました。スコラ哲学の時代においては一般に、「神は、聖書という書物と、自然という書物をお書きになった」と考えられていました。聖書を読めば神の意図を知ることができるとされ、また同時に、ちょうど時計というものをじっくり観察すれば、その時計を作った時計職人の意図を推し量ることも可能であるように、「神がお書きになったもうひとつの書物である自然」を読むことも神の意図や目論見を知る上で大切だ」と考えられてきました。
Ⅰ.聖書における法則
 聖書には神と人間との間に交わされた約束が記されています。多くの場合「すべての道で主を認めよ、そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」(箴言3:6)、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見いだすであろう.門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。」(マタイ7:7)というように、命令と約束という形で成り立っています。聖書には「御霊の法則と罪と死との法則」(ローマ8:2)というものがあります。前者は「キリスト・イエスにあるいのちの法則」であり、後者は「サタンにある死の法則」です。この「御霊の法則」に従う人が新しき人であり、「罪と死との法則」に従う人が「古き人」なのです。
Ⅱ.古き人を脱ぎ捨てる(5~9)
 この箇所には「古き人」を脱ぎ捨てることが記されています。
 1.殺してしまいなさい。 
 標的にあげられているのは「地上の肢体」です。「殺せ」(文語)とは、聞き捨てできない言葉です。しかし、それほど強い意志で立ち向かわなければ「地上の肢体」というものは厄介なもので、サタンの餌食になり易いのです。サタンが狙うのは「不品行、汚れ、情欲、悪欲、貪欲」などです。これらの行為は「偶像礼拝」であり、おもに自分自身の内部に潜む欲望、特に性的な欲望に根ざしていると看破しています。
2.捨ててしまいなさい。
聖書は「古き人をその行いと一緒に脱ぎ捨て」と私たちに迫っています。ここでは「怒り、憤り、悪意、そしり、恥ずべき言葉、うそ」などが標的にあげられています。これらの行為はおもに対人関係において生じる罪であります。
Ⅲ.新しき人を着る (10~13)
ここでは「新しき人」を着ることが記されています。キリストはニコデモに対して「だれでも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3:3)と言われました。キリスト者は例外なく「新生」した者です。従ってそこには「ギリシャ人とユダヤ人、割礼と無割礼、未開人、スクテヤ人、奴隷、自由人の差別はない」のです。私たちは単に新しく生まれただけでなく、新しき人として成熟して行かなくてはなりません。聖書は「あわれみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容、互に忍びあい、ゆるし合いなさい」と教えています。
 私たちは神の法則に反する悪しき法則が幅を効かせているこの世にあって勝利ある人生を送るためには、神の法則、御霊の法則に従うことが最短、最強の道なのです。