聖 書 ルカによる福音書21章1~4節

1 イエスは目をあげて、金持たちがさいせん箱に献金を投げ入れるのを見られ、
2 また、ある貧しいやもめが、レプタ二つを入れるのを見て
3 言われた、「よく聞きなさい。あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。
4 これらの人たちはみな、ありあまる中から献金を投げ入れたが、あの婦人は、その乏しい中から、持っている生活費全部を入れたからである」。

金 言 「あの貧しいやもめはだれよりもたくさん入れたのだ。」(ルカ21:3)
1.献金は信仰の証明
 主イエスはこの女性の信仰をほめられました。彼女は貧しくても手元にある最後の銅貨2レプタをささげました。ありあまる中からささげるなら信仰がなくてもできます。貧しいやもめはたとえ所持金のすべてをささげても神は必ず養ってくださるという信仰の確信がありました。それを証明するのが一見無謀ともいえる大胆な行動でした。ある牧師が信仰は、その人のお金、財産に対する態度に現れるといわれました。「あなたがたは、神と富とに兼ね仕えることはできない。」(マタイ6:24)。お金や財産に心が支配されている人で、神に喜ばれる信仰生活を続けてこられた方はいません。献金はお金があるなしが問題ではなく信仰の問題だと三浦綾子さんは言われました。献金は信仰のバロメーターといわれます。人は物や金銭に執着を持つと、残念ながら信仰からは離れて行きます。
2.献金は信頼の宣言
 献金唱の「すべてはながものなれば…」と賛美するように、人が所有しているものは本を正せばすべてが主のものです。貧しいやもめは明日からの生活もあったでしょうに、神を全面的に信頼してすべてをささげました。私たち人は必ず何かを信頼の根拠に置くことで安心して生きていけます。やもめはお金や物や自分も含んだ人間を信頼の根拠にしていません。それはやもめの取った行動にはっきりと現れています。「私はお金や人や物に信頼の根拠を置きません。持てるものはすべてあなたに今ささげました。私はただあなたを信頼しています。」と言う彼女の声なき宣言が聞こえてくるようです。クリスチャンは神様のみに当てにしていきます。
3.献金は感謝の表現
 献金は教会の定める義務ではありません。神に対する人間の感謝の表現です。私たちは救いによって神様の途方もない愛を受け取りました。毎日主の守りと導きのなかで生かされています。私たちの存在は主の守りと助けなくしては一分一秒たりとも生きられません。感謝をお金には換算できませんが、数えきれない主の恵みに対して感謝をささげることは当然です。貧しいやもめがささげたのはわずか2レプタでしたが、満身に感謝と賛美を込めて全財産をささげました。「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」(詩103:2 新改訳)。私たちは感謝の気持ちを献金という表現によって神に現すことができます。祈りが答えられた。心配したことを無事終えた。恵みを数えて事あるごとに喜んで感謝を表したい。
4.献金は献身の象徴
 クリスチャンは収入の最初の使い道は、献金としてささげるということです。それは残ったお金を献金に当てるのではなく、はじめから収入のうち神様にささげるものを聖別して取り分けておきます。旧約聖書の時代から初子や初なりのものは神様にまずささげたのです(出13:2)。献金は自分自身をささげていることの象徴としてささげます。私たちのいのちは主イエスの十字架によって神様に贖い取られました。ですから私たちは主のものです。自分のものは何一つなく、反対に神様のものを使わせていただいています。献金は礼拝行為であり、礼拝は献身なら、献金は献身を象徴します。
5.献金は祝福の基
 献金を聖書が教えるように忠実に行ってきた人は必ず祝福され、信仰も確実に成長してゆきます。ささげるとお財布の中身は軽くなりますが、不思議なことに神様は何倍もの祝福として返されます。この原理は試した人だけがその恩恵にあずかれます。聖書には神を試みてはいけないと書かれてありますが、唯一の例外が献金です(マラキ3:10)。神様は収入の十分の一を携えてくれば、代わりにあふるる恵みを与えようと約束してくださる気前の良い神なのです。
 献金という行為が礼拝や集会の一部ではなく、むしろ献金する心はキリスト教信仰の神髄です。献金を忠実にささげることで信仰は成長し、日常の必要がある中で神様により信頼していかなければ献金はできません。しかし献金は儀礼的な冷めた心でなく喜びと感謝をもって、私たちの献身の表れです。やもめは所持金2レプタ全額をささげました。すなわち彼女自身を神にささげたのです。