聖 書:ガラテヤ6:1~5

(1) 兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
(2) 互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
(3) もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。
(4) ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。
(5) 人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。

 二、三月は引越しのシーズンですが、今年は教会にも牧師館にも引越しがあります。引越しと言えば重い荷物を運ぶことです。引越しの荷物には一人で運べるものがあれば、二人以上が運ばなければならないものがあります。軽い荷物は一人で運べます。しかし大きくて、重いものは一人では運べません。今日の箇所の二節は教会の重荷です。五節は個人の重荷です。私達には各自の重荷があり、そして教会全体の重荷があります。それを互いに負い合うのが信仰生涯ではないかと思います。今日は二つの「負い(合い)なさい」を中心に見ましょう。
1.互いに重荷を負い合いなさい
 二節の「重荷」は一つではなく、いくつかのものです。教会の重荷です。各教会には互いに負い合わなければならない重荷があります。ガラテヤ教会にも重荷がありました。ガラテヤ1、2章に律法を強調する教えと具体的な実例が書いてあります。ガラテヤ教会で起こったことは現代にもあります。一人の間違いは教会の悩みになります。なぜなら教会は一つの体だからです。罪は一人を通して教会全体に入ってきます。それを教会は処理しなければなりません。方法は柔和な心を持って間違っている兄弟を正すことです。罪過を取り除きながらしかし本人を裁いてはいけません。難しい課題です。ですから霊の人にならなければなりません。真の「霊の人」は裁く人ではなく、魂の回復の為に祈る人です。自分自身も同じ過ちに陥らないように祈る人です。霊の人は自分の弱さも知っているから他人の過ちを裁く姿勢ではなく柔和な心から受け入れることが出来ます。
 二節によりますと互いに負い合うことはキリストの律法を全うすることです。キリストの律法はヨハネ13章35節に書いてあります。「互いに愛し合いさない」です。キリストの愛は兄弟の過ちでさえ憐れむ愛です。過ちがある兄弟をありのまま受け入れる愛です。過ちは正しますが、しかしその存在は依然として同じ兄弟です。その存在を受け入れるのが愛であり、重荷を負い合うことです。
2.自分自身の重荷を負いなさい
 五節の「重荷」は個人が持っている重荷です。口語訳では2節も5節も同じ「重荷」という単語を使っていますが、実は違います。二節の重荷は複数です。五節の重荷は単数です。しかも単語が違います。五節の個人の重荷は隣りの人が助けてあげることの出来ない重荷です。確かに私達の人生を考えてみるとそれは言えます。いくら一心同体の夫婦でも代わりに負い合うことの出来ない個人の重荷があります。いくら愛する親子でも、いくら親しい兄弟でも本人しか背負えない重荷があります。代わりに背負うことの出来ない重荷は、その人にだけ与えられたものです。神様からのものです。十字架から復活の奇跡が起こり、十字架から栄光が生まれるので、個人の十字架を代わりに背負うことは出来ません。パウロ自身も5節のみことばの通りに彼自身の重荷を背負って生きました。パウロが個人的に背負っていたものは6章17節です。「私はこの身に主イエスの焼き印を帯びて(運んで)います」。帯びている単語と重荷を負う単語は同じ言葉です。パウロは個人の重荷を帯びて生きました。
私達の教会に与えられている重荷を互いに愛の心から、謙遜に負い合いましょう。そして、各自に与えられている重荷を信仰を持って負いましょう。