聖 書:コロサイ人への手紙 4章2節~6節

(2) 目をさまして、感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい。
(3) 同時にわたしたちのためにも、神が御言のために門を開いて下さって、わたしたちがキリストの奥義を語れるように(わたしは、実は、そのために獄につながれているのである)、
(4) また、わたしが語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい。
(5) 今の時を生かして用い、そとの人に対して賢く行動しなさい。
(6) いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。

 パウロは3章においてこれまで、キリスト者としての生き方、家庭人としての生き方について語ってきましたが、この段落においては社会人としての生き方について述べています。私たちキリスト者はこの世から贖い出された者ですが、決して社会から遊離したり、隠遁したりして生きる者ではありません。むしろ今まで以上に社会のただ中に入り込む生き方が求められ、勧められているのです。それは私たちキリスト者には主からの明確な使命が与えられているからに他なりません。

Ⅰ.感謝の祈りを祈り続けなさい
 
パウロはこの手紙の冒頭において、コロサイの人たちのために祈っていることを披瀝しています。今、この手紙を終えるに際して、「感謝のうちに祈り、ひたすら祈り続けなさい」と勧めています。B・グラハムはクルセードのために「一に祈り、二に祈り、三に祈り」と祈ることを要請しました。それは祈りがどれほど重要であるかを知っていたからです。それは単なる習慣でもなく、お題目でもなく、ましてや気まぐれで唱えるものでもありません。祈りこそは、「世界を動かす神の御手を動かす力」なのです。ですから執拗に祈り求め続けることが大切なのです。主イエスは「友人だからというのでは起きて与えないが、しきりに願うので、起き上がって必要なものを出してくれるであろう」(ルカ11:8)と言われました。私たちの祈りの手を萎えさせる誘惑は、必要以上の豊かさ、世と深く関わることから生じる疲労感、惰眠を貪る不信仰などです。
Ⅱ.キリストの奥義を語れるように祈ってほしい。
パウロは幽閉状態にあって福音を自由に語ることができません。ですから「神が御言の門を開いて下さって・・キリストの奥義を語れる」ことを切に願って、「語るべきことをはっきりと語れるように、祈ってほしい」と要請しています。その根底にあるものは、霊魂に対する情熱です。私たちはこの世にあって生活の糧を得るために仕事を持っています。勿論、仕事は生活のためだけではなく、お互いにとって使命とも言える部分があります。そのことは決して否定すべきではありません。ただ社会人として生き方としては、神から与えられた更に高い使命に立つことが求められています。それはキリストの奥義を語ることであり、福音を宣べ伝えることなのです。
Ⅲ.今の時を生かして、賢く行動しなさい。
パウロは「今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」(エペソ5:16)、「見よ、今は恵みの時、見よ、今は救の日である」(Ⅱコリント6:2)、ホセアは「今は主を求むべき時である」(10:12)、伝道の書は「天が下のすべての事には季節があり、すべてのわざには時がある」(3:1)と言っています。社会人としてより多くの人々と良い人間関係を結ぶことは、今(危機的状況)の時を生かす賢い行動とつながっています。
Ⅳ.塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。
イエスは「あなたがたは地の塩である」(マタイ5:13)と言われました。塩は調味料として料理には欠かせません。それは素材の味を引き出し、料理全体にまろやかさを醸し出し、腐敗を防ぎます。キリスト者は世にあって塩のような存在でありたいものです。その典型的なものが「やさしい言葉」なのです。箴言は「ここちよい言葉は蜂蜜のように、魂に甘く、からだを健やかにする」(16:24)と言っています。ヤコブは「もし、言葉の上であやまちのない人があれば、そういう人は、全身をも制御することのできる完全な人である」(3:2)と言っています。
私たちはキリストを証しする者として感謝の祈り、証し、今の時を生かすこと、やさしい言葉遣いなどにおいて人々をキリストに結びつける者として下さい。