聖  書:使徒行伝20章17節~24節

(17)そこでパウロは、ミレトからエペソに使をやって、教会の長老たちを呼び寄せた。
(18)そして、彼のところに寄り集まってきた時、彼らに言った。「わたしが、アジヤの地に足を踏み入れた最初の日以来、いつもあなたがたとどんなふうに過ごしてきたか、よくご存じである。
(19)すなわち、謙遜の限りをつくし、涙を流し、ユダヤ人の陰謀によってわたしの身に及んだ数々の試練の中にあって、主に仕えてきた。
(20)また、あなたがたの益になることは、公衆の前でも、また家々でも、すべてあますところなく話して聞かせ、また教え、
(21)ユダヤ人にもギリシヤ人にも、神に対する悔改めと、わたしたちの主イエスに対する信仰とを、強く勧めてきたのである。
(22)今や、わたしは御霊に迫られてエルサレムへ行く。あの都で、どんな事がわたしの身にふりかかって来るか、わたしにはわからない。
(23)ただ、聖霊が至るところの町々で、わたしにはっきり告げているのは、投獄と患難とが、わたしを待ちうけているということだ。
(24)しかし、わたしは自分の行程を走り終え、主イエスから賜わった、神のめぐみの福音をあかしする任務を果し得さえしたら、このいのちは自分にとって、少しも惜しいとは思わない。

日本人口約一億二千七百万人の内クリスチャンは0.8%約で百万人です。その中でプロテスタント0.4% 五十四万人です。杉並区の人口が今年の8月1日現在で約五十四万人ですから、日本のプロテスタント信仰のクリスチャン人口と同じくらいです。日本でプロテスタント宣教が始まって154年も経ったのに、私たちの人口は増えず未だ「少数民族」です。人口はどうすれば増えるのか?それは新しいいのちが生まれることです。

1.神は私たちにおのおの走るべき行程を与える。

陸上競技のトラックは一人ひとりに進むルートが定められています。同じように、私たちの人生も神が選ばれた走るべき行程が定まっています。ところが人生のコースが競技場のトラックと違うのは、人生のトラックは千差万別です。パウロがキリストを信じたのちに走った行程は苦難続きの厳しい道のりでした。彼は死を覚悟して旅の終着地エルサレムへ向かいます。いわば人生の最終コーナーを走り切ろうとしていますが、恐れや思い残すことは何もありません。むしろ走るべき行程を走り終えたことに非常に満足をしています。あなたは神が望んでおられる走るべき行程を走っていますか。苦しいからと言って脇道にそれてしまい、神さまに面目ない生き方はしたくはありません。

2.神は私たちにやらなくてはならない任務を与える

私たちは走るべき行程の途上でやらなくてはならない任務があります。任務とはやってもやらなくてもよい仕事という意味でありません。果たすべきつとめです。人間は子どもから大人までその年齢に応じた仕事や役割を持っていますが、クリスチャンには神様から与えられた栄誉ある任務があります。それが「めぐみの福音をあかしする」任務です。地上でどんな仕事を達成しても功労はつかの間ですが、神の任務は相手のこの世の人生だけでなく永遠を変える重要な使命です。だからこそクリスチャンは与えられたいのちの限り、この任務を遂行しなければなりません。「御言を宣べ伝えなさい。時が良くても悪くても、それを励み」(Ⅱテモ4:2)とあるように、福音をあかしすることはいつかやろうではなく、「いつやるか?今でしょ」です。

3.神からの任務をやり遂げるときにまことのいのちが生きる。

パウロは間もなく自分の人生の行程は終わろうとするけれど、できることはやりきったので、いつ神の前に召されたとしても、自分にとっては命すら惜しくはないと確信がありました。パウロは力の限り伝道してきたので後悔や心残りはありません。私たちはパウロには及ばなくても、時間も労力も富も惜しみなく神に献げ、機会あるごとにめぐみの福音をあかししましょう。この仕事は若くて未熟だからとか、もう年を取りすぎて…という定年はありません。神からの任務をやり遂げるときにキリストにあるまことのいのちが生きるのです。