聖 書  ピリピ人への手紙3章1~16節
3:1 最後に、わたしの兄弟たちよ。主にあって喜びなさい。さきに書いたのと同じことをここで繰り返すが、それは、わたしには煩らわしいことではなく、あなたがたには安全なことになる。
3:2 あの犬どもを警戒しなさい。悪い働き人たちを警戒しなさい。肉に割礼の傷をつけている人たちを警戒しなさい。
3:3 神の霊によって礼拝をし、キリスト・イエスを誇とし、肉を頼みとしないわたしたちこそ、割礼の者である。
3:4 もとより、肉の頼みなら、わたしにも無くはない。もし、だれかほかの人が肉を頼みとしていると言うなら、わたしはそれをもっと頼みとしている。
3:5 わたしは八日目に割礼を受けた者、イスラエルの民族に属する者、ベニヤミン族の出身、ヘブル人の中のヘブル人、律法の上ではパリサイ人、
3:6 熱心の点では教会の迫害者、律法の義については落ち度のない者である。
3:7 しかし、わたしにとって益であったこれらのものを、キリストのゆえに損と思うようになった。
3:8 わたしは、更に進んで、わたしの主キリスト・イエスを知る知識の絶大な価値のゆえに、いっさいのものを損と思っている。キリストのゆえに、わたしはすべてを失ったが、それらのものを、ふん土のように思っている。それは、わたしがキリストを得るためであり、
3:9 律法による自分の義ではなく、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基く神からの義を受けて、キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。

金  言
…ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。(ピリピ3:12後半)

 本日8月25日は教区講壇交換で、西船橋栄光教会で御用をさせていただき主に感謝。西船橋栄光教会に来させていただくのは久し振りの気がする。記憶に間違いなければ講壇交換では3回目になる。良いもの、良き働きは、循環していくべきである。次には、痛みや困難を、共に乗り越えていく努力をすべきである。共に主にあるということを祈り、実行していくことは大切である。主にある関係、交わりということを、パウロとピリピ教会の間にあったものを見ていきたい。

1.ピリピ人への手紙について
 ピリピ人への手紙の著者はパウロである。エペソ、ピリピ。コロサイ、ピレモンの4つの手紙は獄中書簡と呼ばれる。パウロは度々牢屋に捕らわれたので、これらの手紙はいつの獄中であったかという議論はある。ローマの獄中で紀元後61、62年頃のことであると考えて良い。この手紙の宛先は表題の通りピリピ教会である。使徒行伝を読んでいくと、第二回伝道旅行に出たパウロが、トロアスでマケドニア人の幻を見た。パウロは御心を確信してエーゲ海を渡り、最初に上陸した町がネアポリス、次に向かったのが、このピリピである。マケドニア第一の町であったピリピで最初にイエス様を信じたのがルデヤであった。神様は一人の人を備え、導き、そこから働きを始めていかれる。ピリピで神様を信じる群れが起こされ、教会が生み出されていった。ピリピに、恐らくはヨーロッパ最初の教会が生まれていった。この手紙を読んですぐに感じることは、5ページという決して長くない手紙の中に、喜びという言葉が、喜ぶという動詞も含めて14回出てくる。ヨハネ第一の手紙が愛の手紙と呼ばれるように、ピリピ人への手紙は喜びの手紙である。パウロにとって、自分が関わった教会が喜びである、導いた魂が喜びそのものであっただろう。パウロがこの手紙を書いたローマでの獄中時代、多くの人々は彼から離れていったようである。ピリピの教会はパウロを祈りに覚え、具体的に献金をエパフロデトに託して送り届けている。エパフロデトは使者であったが、そのまま獄中のパウロに仕え、その働きによって体を壊し、重病になった。そこまで獄中のパウロを支えようとした教会はピリピ教会しかなかった。ピリピ教会は決して、大教会でも有力な群れでもなかったようである。ピリピ教会の篤い思いと、実際の行動に対してパウロは感謝を持ち、喜びを感じ、支えとなっていた。信仰は決して自己満足に終わらない。もし、自己満足、自己完結、自己義認で終わるのなら、いびつなものとなる。イエス様の福音がゆがめられてしまう。パウロとピリピ教会のように、祈りと行動、互いに愛し合う関係を私たちは持ちうるものとなりたい。

2.ピリピ教会への警告
 ピリピ教会に関しては、パウロは喜びだけを持っていたのであろうか。パウロがこの教会を心配し、憂慮していたことがあった。パウロ当時の教会は、ユダヤ人たちが多数改宗してきていた。ピリピ教会はガラテヤ人への手紙ほどあからさまではないが、律法主義、ユダヤ主義に陥ることへの警戒が語られている。「肉を頼みとする」(3・4節)とあるように、人間的な努力、熱心さによって、神様に近づき、救いを求めようとすることである。一生懸命努力しましょうというのは間違いではない。一見、熱心で、まっとうな考え方のように思われるかもしれない。人間の努力で救われるのであれば、極論すればイエス様の十字架は不要になる。そこでは人間の努力がほめられ、人間の義がまかり通る。「キリストを信じる信仰による義、信仰に基づく神からの義」(9節)ただイエス様の救いを信じることによって、新しく生まれ、神様からの義をいただくものとなる。ただ信じれば良いのかと言われようが、信じるためには、自分自身が打ち砕かれる経験をしなければならない。「キリストのゆえに、わたしはすべてを失った。」(8節)とパウロは言う。人によって、転換の大きさは違う。パウロは教会の迫害者、反対者であったものが、伝道者、神の僕に変えられた。神様を信じる人間は弱い人間だという一般的な考え方がある。信じることは、自分が変えられる、変わることを恐れないという勇気が必要な行為である。信じることは神様に任せるという、大きなかけをすることになる。信じる人たちは臆病な弱い人ではない、勇気のある強い人なのである。ピリピ教会が律法主義、人間の努力が問われる世界に陥っていることにパウロは警告する。ただ、神様を信じ、委ね、神様によって進んで行くことをパウロは問いかけている

3.ピリピ教会への勧め
 パウロは自分の信仰はもう安心であるなどと決して言っていない。「何とかして死人のうちからの復活に達したい」「ただ捕えようとして追い求めている」「ただこの一事を務めている。」パウロの内には、挑戦者としてのひたむきさがある。私たちとは比べ物にならない、大きな信仰を持っていたパウロがそう言っている。私たちは、自分の信仰はこれぐらいだろうと思い、自分はもう良いと満足してはいないだろうか。私たちは、自分は大丈夫という慢心を持ちやすい。パウロはなお、目標を目指して走るという。競技者、アスリートを想像して言葉を記している。競技者は、余分なものを持たず、ただゴールを目ざし、コンマ何秒、1cmの勝負を挑んでいる。私たちの信仰はそこまで戦いの姿勢、緊張感を持っているだろうか。神様の助けをいただきながら、全きを目ざしていく私たちであろう。救いは神様からいただく恵みである、その恵みに応答して歩んで行くのである。誰もがパウロは強いと思う、この人には付いていけないと感じる。「ただわたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。」と最後にパウロは記す。肉体も、精神も、信仰も強い人があれば、弱い人もある。パウロは達し得たところであると言う、それぞれ今のあなたの場所からということである。あなたが立っているその所、あなたが持っているその物から始めなさいと言う。

私たちに与えられた神様の救いは恵みである、私たちの歩みも恵みによって導かれている。私たちはそこに安住するのではなく。恵みによって強くされ、励まされ、今立っている、その所から始めさせていただこう。