聖  書: 哀歌3章19節~26節

(19)どうか、わが悩みと苦しみ、にがよもぎと胆汁とを心に留めてください。
(20)わが魂は絶えずこれを思って、わがうちにうなだれる。
(21)しかし、わたしはこの事を心に思い起す。それゆえ、わたしは望みをいだく。
(22)主のいつくしみは絶えることがなく、そのあわれみは尽きることがない。
(23)これは朝ごとに新しく、あなたの真実は大きい。
(24)わが魂は言う、「主はわたしの受くべき分である、それゆえ、わたしは彼を待ち望む」と。
(25)主はおのれを待ち望む者と、おのれを尋ね求める者にむかって恵みふかい。
(26)主の救を静かに待ち望むことは、良いことである。

序 論)
先週22日、お祈り、お手伝いくださり、新会堂3階の牧師館への引越しをさせていただいた。新居という言葉がふさわしく、感謝にたえない。教会に居を定めて、改めて身が引き締まる思いがしている。いつも新しい思いで主に仕えていきたいと願う。
今朝は2014年度の教会聖句の一つである哀歌3:22-23が開かれてきた。教会標語は、神に愛され、人を愛する-新5カ年ビジョン1年目「神の愛に生きる-福音宣教」である。与えられた教会標語の中で、特に最後の「福音宣教」に目を止める。新会堂が建て上がった。イエス様は新しい皮袋には新しいぶどう酒をと言われた。新会堂という新しい皮袋ができた。新しいぶどう酒とは、新しい魂がここに集うということでもある。外に向かって福音宣教の業に励もう。この1年、私は礼拝説教で「宣教」をテーマに語る。宣教の力に満たされて立ち上がろう。
本 論)
1)私たちを押し止めるもの
19・20節を見ていく。悩みと苦しみが、にがよもぎ、胆汁のようであって、魂をうなだれさせるものであるという。イスラエルではこのにがよもぎから毒液が作られた。胆汁という言葉も他では毒草と訳されている。どちらも人に害を与える、人を死に至らせるような恐ろしいものを指している。ここで、これらの害は肉体にということではなく、魂に働いて弱らせるものである。魂に害を及ぼすものは罪である。罪は神様から人を引き離す。神様の命、神様の愛、神様のあらゆる良きものを受けさせなくさせる。私たちの心をしおらせ、暗闇の中に押し留め、滅びへと向かわせる。信仰者はそこに止まるものではない。
2)私たちに望みを与えるもの
哀歌の著者はエレミヤと言われるが、エレミヤは21節に、神様を思い起こし、神様によって望みを抱くとある。私たちを霊的な暗闇に閉じこめさせようとするのは悪魔の働きであろう。私たちを霊的な輝きへと解き放とうとされるのは神様である。Ⅰペテロ1:5~9には、イエス様による救いは輝きに満ちた喜びを私たちに与えるとある。イエス様の十字架によるあがないがあって、私たちには罪赦された喜びがあり、光に生きることができる。22節にあるように、神様の私たちへのいつくしみ、あわれみの大きさをエレミヤは語っている。
3)私たちの救いの確かさ
23節には朝ごとに新しいとある。イスラエルの歴史の中で朝ごとにというと、荒野の40年間での主食であったマナが天から降ることを思い起こす。荒野の生活の間、安息日を除いて毎朝マナは天から降った。今日は都合で臨時に休みますということなどない。40年間休みなく備えられた。今日はこれだけしかできませんなどというものでもない。必要分が、毎日欠かすことなく与えられた。朝ごとに私たちの救いは備えられている。古びるものではなく、いつも新しくある。どれほど確かな救いにあるのかを感謝しよう。
結 論)
人は罪に捉えられ、心しおれて力を失っている。イエス様の十字架のあがないによって救われ、喜びに生きる者となる。日ごとに新しい救いにある。この恵みを証ししていくものとなろう。宣教のために尽くすものとさせていただこうではないか。