聖 書:イザヤ49章7節~13節

(7)イスラエルのあがない主、イスラエルの聖者なる主は、人に侮られる者、民に忌みきらわれる者、つかさたちのしもべにむかってこう言われる、「もろもろの王は見て、立ちあがり、もろもろの君は立って、拝する。これは真実なる主、イスラエルの聖者が、あなたを選ばれたゆえである」。
(8)主はこう言われる、「わたしは恵みの時に、あなたに答え、救の日にあなたを助けた。わたしはあなたを守り、あなたを与えて民の契約とし、国を興し、荒れすたれた地を嗣業として継がせる。
(9)わたしは捕えられた人に『出よ』と言い、暗きにおる者に『あらわれよ』と言う。彼らは道すがら食べることができ、すべての裸の山にも牧草を得る。
(10)彼らは飢えることがなく、かわくこともない。また熱い風も、太陽も彼らを撃つことはない。彼らをあわれむ者が彼らを導き、泉のほとりに彼らを導かれるからだ。
(11)わたしは、わがもろもろの山を道とし、わが大路を高くする。
(12)見よ、人々は遠くから来る。見よ、人々は北から西から、またスエネの地から来る」。
(13)天よ、歌え、地よ、喜べ。もろもろの山よ、声を放って歌え。主はその民を慰め、その苦しむ者をあわれまれるからだ。

初めて荻窪栄光教会のクリスマスを共にさせて頂いた。新会堂最初のクリスマスの大きな恵みを感謝し、お一人一人の尊いご奉仕に心から感謝をささげる。

1.あがないの恵み
本年最後の聖日となった。初めに神様は「あがない主」とご自分を呼ばれる。ゴーエルという法律言葉になるが、出エジプトとバビロン捕囚に多く使われる。奴隷の地エジプトから、捕囚の地バビロンからイスラエルに帰ることは神様のあがないの業であった。あがなうとは、代金が支払われ元の所有者に取り戻されることである。どこかの場所から帰ってくることだけではなく、元の所有に帰属するということである。神様とのつながりが回復されることになる。今春、1年間の仮の生活を終えて荻窪の地に帰ってきたのは、神様とのつながりがより強く、より深く、より豊かにされるためである。

2.集められる恵み
イスラエルの民はエジプトやバビロンで故国を失い、指導者はなく、奴隷とされていた。8節「国はあれすたれ」、9節「捕えられた人、暗きにおる者」、10節にある飢える、かわくという状態にあった。あがない出される神様は9節『出よ』『あらわれよ』と呼びかけられる。12節のように遠くから呼び集められる。離れ、散らされていたものが神様の元に集う。神の民が一つとなる姿は、荒野の幕屋、エルサレムの神殿、安息日の会堂での礼拝に見られる。教会でも様々な集まりがあるが、皆が一堂に集まり神様に会するのは礼拝のみである。礼拝は、御言を通して神様に聞く、信仰が励まされ育てられ生かされていく、神様の栄光を崇め、祈るものである。あがない出された一同が共に集められることで実現されていく。私たちは礼拝を中心とし、神様によって生かされていく。

3.遣わされていく恵み
あがなわれ、集められた民は恵みによって必要が備えられる。9節に牧草が出てくる、大切な家畜のために必要が満たされる。10節に民は飢えることなく、かわくこともない。荒野を渡る熱風も、厳しい太陽も恐れることはない。あわれみ深い神様によって導かれる。10節の泉という言葉に2重の意味を見出す。実際に必要な水として、神様は豊かに備えられる。生ける命の水を私たち

が持たなければ、霊的な意味で私たちは枯れたものとなる。命の水はサマリヤの女性にイエス様が語られたように、イエス様ご自身からいただく。実際の必要も、霊的な必要もこの年私たちに与えられた。新しい年も神様は備えてくださる。10節の導くと訳された言葉は、最初の言葉は案内すると訳し、次の言葉は導くである。新しい年も神様が私たちの案内役、先導役となってくださる。

神様は私たちをあがない救われた、神の民として礼拝に呼び集め、必要を備え、遣わしてくださる。この1年を感謝し、新しい年も神様に期待しよう。