聖 書 ヨハネによる福音書13章34~35節
13:34 わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。
13:35 互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう」。

金 言 「わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。」(ヨハネ13:34)

 

ひとりの男が、天国と地獄について神さまと話しています。神さまは「さあ地獄を見せよう」とある部屋に行くと、人間たちは煮物の入った大鍋を囲んでいましたが、全員がひどくお腹をすかせて生きる望みをなくしたように見えます。みな、スプーンを鍋に入れて煮物を口に運ぼうとしますが、スプーンの柄が長くて口に届きません。「今度は天国を見せよう」。次に二人が入っていったのは先ほどと全く同じような部屋でした。煮物の入った大鍋と柄の長いスプーンを持った人間たちがいます。ところがこの部屋に人たちはお腹も満たされ顔は幸せに輝いていました。男は神さまに聞きます。「なぜここにいる人たちは幸せそうで、さっきの人たちはみじめなのですか?条件はまったく同じなのに。」神さまはほほ笑み言います。「ここにいる者たちは、お互いに食べさせ合うことを学んだのだ。それだけの違いなのだ。」

今年の最後の礼拝は「互いに愛し合いなさい」というイエスさまが最後に残された戒めを学びましょう。

1.イエスから愛を学ぶ
 この章の始まりは最後の晩餐に集まった弟子たちが食事の前にイエスさまから自分の足を洗ってもらうという忘れがたい貴重な体験をします。当時、食事の前に足を洗うのはその家の奴隷か一番下の者がする仕事と決まっていました。集まった弟子たちは誰がその仕事をするかでお互いを牽制していたかもしれません。ところがその緊張感を破るかのようにイエスさまは当然のように立ち上がり、上着を脱ぎ腰にタオルに巻き僕のする仕事を率先して行いました。弟子たちは全員が勿体ない、畏れ多いと心で思ったでしょう。ペテロはイエスさまの行為を理解しかねて固辞しようとしますがイエスさまに「もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしとなんの係わりもなくなる」。と言われるとあわてて前言を撤回します。イエスさまは「わたしのしていることは今あなたにはわからないが、あとでわかるようになるだろう」。と言われましたが、それはこのあと語る「新しい戒め」を身を持って実践することで、弟子たちの心に強く印象づけられます。わたしも親が他の人に見せた小さな愛の行為を見て多くのことを教えられました。

2.イエスの愛に倣う
 イエスさまはこの夜、ゲッセマネの園で苦しみ祈りぬき十字架を御父のみこころと確信して人間の悪意と罪にご自身をお任せになられ十字架につかれます。弟子たちはイエスさまと過ごした三年間はいつも互いに誰が一番か競い合っていました。しかしイエスさまが十字架にかかり一人ひとりのためにいのちを捨ててくださった犠牲の愛、無償の愛を体験した後はその古い肉の性質が変えられます。互いに愛し合うようになります。弟子のヨハネは雷の子ヨハネから愛の人ヨハネに変わりました。それがヨハネの手紙に色濃く反映されています。イエスさまがこのとき命じた「わたしが、あなたがたの足を洗ったからには、あなたがたもまた、互に足を洗い合うべきである。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしは手本を示したのだ」という言葉は弟子たちの信仰にしっかりと根付いていくのです。ヨハネだけでなくパウロやペテロの書簡にも「互いに愛し合いなさい」という「新しい戒め」はキリストの弟子たちに時代を超えて広く深く浸透していきました。キリスト教が愛の宗教と言われる由縁です。

3.イエスの愛を証しする
 教会はキリストの愛の共同体です。荻窪の標語は「愛に生きる教会」です。わたしたちの毎日の生活がキリストの犠牲の愛に生かされなければなりません。クリスチャン同士が互いに愛し合うことはキリストを暗黙の裡に証しする最も良いチャンスです。イエスさまは「互に愛し合うならば、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」と言いました。人間は神さまを肉眼で見ることはできません。しかし聖書は言います。「神を見た者は、まだひとりもいない。もしわたしたちが互に愛し合うなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである。」(Ⅰヨハ4:12)。神さまがこの世界におられることのクリスチャンができる最もふさわしい証しが「互いに愛し合う」ことです。そしてイエスさまはクリスチャンをさらに高次の目標に向かわせます。「敵を愛し、迫害する者のために祈れ。」(マタ5:44)です。

カトリックの聖者アシジのフランシスコの平和を求める祈りは有名ですが、「神よ、わたしに、慰められるよりも、慰めることを、理解されることよりも、理解することを、愛されるよりも、愛することを望ませてください。」という箇所があります。心で復唱して新しい年に生活の場で実践してゆきたい。