聖 書 ヨハネによる福音書20章19~23節
20:19 その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、「安かれ」と言われた。
20:20 そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ。
20:21 イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。
20:22 そう言って、彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。
20:23 あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう」。

金 言
「イエスはまた彼らに言われた、「安かれ。父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」。(ヨハネ20:21)

新年明けましておめでとうございます。この年がどのような年になるか誰もが不安と期待が入り混じっています。2015年は1945年第二次世界大戦が敗戦を迎えて、戦後70年を迎える記念の年です。今日まで日本が戦争のない年月を守られたことを感謝して、この年も平和が続く年でありますようにと切に祈ります。

1.イエスはわたしたちに平安と喜びを与える
 イエスさまはわたしたちに平和をもたらすためにこられました。イエスさまは預言者イザヤによって「平和の君」と唱えられました。この世に生まれたときは天使たちが天空で「地の上では、み心にかなう人々に平和があるように」と大合唱しました。そして死んでよみがえったのちに弟子たちにかけられた第一声は「安かれ」でした。ここを新改訳では「平安があなたがたにあるように。」と訳しています。イエスさまの存在は平和を現しています。ヘブル語で平和はシャロームです。もともとの意は「健全」「安寧」「繁栄」ですが、その根底にあるのは神様と人に正しい関係です。人間は争うことなく表面的に平和が保たれているような状態でも、罪を抱えたまま生きることは結局、創造主に背いて自分勝手に生きることです。このような人は物事が順調な時は平安があっても、ひとたび試練に会うと自分の運命を呪い神に対して怒りがわいてきます。怒りの矛先は神に向けられ、なぜわたしがこんな目に合わなくてはいけないのか?と平安を無くします。しかしキリスト者は「わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」(ローマ5:1)ので、たとえ心が騒ぐような出来事が起こっても神様を信頼していくとき、主にあって平安を取り戻すことができます。キリストの贖いによって神と和解した者は本物の平安を得ることが出来ます。

イエスの弟子たちは、イエスのよみがえった朝知らせを女たちから受けながら、その日に夕方にはユダヤ人の迫害を恐れて、戸を硬く締めて閉じこもります。そこへイエスがすうっと入ってこられて彼らの真ん中に立ち彼らを励まします。イエスは「安かれ」と声をかけて怯えて怖気づく弟子たちにほら、わたしだよと釘で傷ついた手のひらと槍で突き刺された脇腹を見せられます。文語訳では簡潔に「弟子、主を見て喜べり」(20)と訳します。わたしたちも今年動揺するような出来事が起きても、イエスさまは「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。」(14:27)と励ましてくださいます。たとえ喜べないことがあっても主に信頼してゆく時、わたしたちはほほ笑みながら良い次の計画を待ち望むことはできます。

2.イエスはわたしたちに聖霊をくださる
 イエスさまは『彼らに息を吹きかけて仰せになった、「聖霊を受けよ。」』(22)にあります。旧約聖書で使われるヘブル語のルーアハということばは、もともと「息」とか「風」をいみすることばです。神の息にはいのちがあります。

創造のはじまり人は神によって土のチリから形は造られましたが、神がいのちの息を吹き込むまでは生き物になりませんでした(創世記2:4)。神が人間に最初に吹き込まれた息によって、人間をその他の被造物と異なる存在にしました。神は人を「神のかたちに創造」(創世記1:27)されたので人は魂を持った存在となり、神と対話ができる唯一の被造物になりました。そして復活のイエスさまが吹きかけてくださった息によって、神はわたしたちキリスト者に永遠のいのちを与えられました。この息によってわたしたちはこの世で神の御心を行うことが出来ます。

3.イエスはわたしたちを世につかわされる
 イエスさまは弟子たち宣言されています。「父がわたしをおつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」(21)。こう言ってご自分が誰の権威によって働いているのかを明らかにされました。そしてイエスさまは、世界に福音を広める働きを弟子たちに託されました。御父が「しかし、時の満ちるに及んで、神は御子を女から生れさせ、律法の下に生れさせて、おつかわしになった。」(ガラテヤ4:4)ように、イエスさまはご自分を信じて救われた者たちを遣わすのです。しかし自分の才覚や能力でイエスさまに委ねられた宣教のわざをするのではありません。あの頭脳明晰なパウロでさえ「そして、わたしの言葉もわたしの宣教も、巧みな知恵の言葉によらないで、霊と力との証明によったのである。」(Ⅰコリント2:4)と言っています。わたしたちが神の働きを行うためには必ず、聖霊の導きと御力が必要なのです。御父がイエスをつかわし、イエスがあなたをつかわすということは、あなたの語る権威は神からきているのです。あなたがいつも聖霊に満たされるように祈るなら「天の父はなおさら、求めて来る者に聖霊を下さらないことがあろうか」(ルカ11:13)と託された働きを全うする力も備えられます。