聖  書 :マタイ6章33節~34節
(33) まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう。 (34)だから、あすのことを思いわずらうな。あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である。

正月には多くの人々が初詣をします。三大厄神、七福神、三祖師などに初詣をします。祖師とは一宗一派を開いた人を意味します。神楽坂の日蓮宗圓福寺は「懺悔守り」で有名です。寺側では「人間であれば、誰もが大小問わず罪を作って生きています。懺悔守りとは、そういった過去の罪をお詫びし、懺悔が三つの事柄に変化をもたらすことを祈念する、お守りとなります」と説明しています。その中には氏名と年月日と共に次の言葉が記載されています。「私は遠い過去世より現在までの罪、私に係わる先祖の罪をお詫び致します。心から懺悔し、健康運、金運(仕事運)、人の縁(良縁)の三つが変化しますように、布施の行い(世の中に見返りを求めないで奉仕する)を実践するように努力します」。
聖書は「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものは、すべて添えて与えられるであろう」と教えています。

1.まず第一にすべきもの
「まず」とは「何よりもまず」(新共同)、「まず第一に」(新改訳)を意味しています。それは順番(相対的)ではなく、本質(絶対的)を表しています。イエスはマルタに「それは彼女から取り去ってはならないもの」(ルカ10:42)と言われました。イエスの言葉に耳を傾けることを取り去っては、マリヤがマリヤで無くなってしまう事を意味していました。パウロは当時の人々が肉体に必要な食物の善し悪しに関して論議している中で、「神の国は飲食ではなく、義と、平和と、聖霊における喜びである」(ローマ14:17)と人々を諭しました。イエスは「神の国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ」(ルカ17:21)と言われました。私たちの心の中に〈神の義と神との平和と聖霊のよる喜び〉が存在しているでしょうか。

2.求めること
聖書は「求めなさい」と勧めています。それはまだ完成の域には到達していないことを意味しています。パウロは「わたしはすでに捕らえたとは思っていない。・・目標を目ざして走り、・・賞与を得ようと努めている。・・わたしたちは達し得たところに従って歩むべきである」(ピリピ3:13-16)と終生求道者としての人生を歩みました。山登りでも頂上に立てばあとは下るだけです。信仰においても同様です。高慢は人を後退させます。「神はは高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである」(?ペテロ5:5)とある通りです。ですからいつも「互に人を自分よりすぐれた者としなさい」(ピリピ2:3)、「互の徳を高めることを、追い求めようではないか」(ローマ14:19)と勧められているのです。

3.すべて添えて与えられる
私は荻窪赴任以来、荻窪ビジョンを掲げて祈ってきました。足りない祈りでしたが、最近気がついたことですが、献身者が1990年以前に11名、以後に16名加えられ合計27名になったことです。私たち夫婦は来年金婚式を迎えます。その間、神は小さな祈りに豊かに応えて下さいました。そうした恵みもすべて神にとっては「お添え物」だったのです。「大事をなそうとして、力を与えてほしいと神に求めたのに、慎み深く従順であるようにと弱さを授かった・・」(「病者の祈り」。

祝された信仰生活の秘訣は、第一のものを第一として、基盤をしっかりと固めることです。必要はすべて与えられ、思い煩いは神が責任を負って下さいます。