説教題:「命を捨てる羊飼い」        井上義実師
聖 書:ヨハネ10:7~18

(7)そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。
(8)わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。
(9)わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。
(10)盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。
(11)わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
(12)羊飼ではなく、羊が自分のものでもない雇人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。
(13)彼は雇人であって、羊のことを心にかけていないからである。
(14)わたしはよい羊飼であって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。
(15)それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
(16)わたしにはまた、この囲いにいない他の羊がある。わたしは彼らをも導かねばならない。彼らも、わたしの声に聞き従うであろう。そして、ついに一つの群れ、ひとりの羊飼となるであろう。
(17)父は、わたしが自分の命を捨てるから、わたしを愛して下さるのである。命を捨てるのは、それを再び得るためである。
(18)だれかが、わたしからそれを取り去るのではない。わたしが、自分からそれを捨てるのである。わたしには、それを捨てる力があり、またそれを受ける力もある。これはわたしの父から授かった定めである」。

前回の説教の時にも話したがレントの40日間が始まっている。イエス様のご苦難、十字架に対して心静める時を過ごす。復活と栄光の主を待ち望む。

Ⅰ.良い羊飼い
アブラハムは遊牧生活を送り、ダビデ王も少年時代はベツレヘムの羊飼いであった。羊飼いは羊を野原に連れていき、水辺に導く。ここで命と訳された言葉は2種類ありプシケーとゾーエである。プシケーは生物の命を指し、ゾーエは霊的な命、永遠の命につながる。羊飼いは羊を養い、プシケーの命を守る。雇い人はおおかみが襲うような危機の時に逃げ出す。羊の命よりも自分の命が大切だからである。良い羊飼いは命を捨てて羊を守る。羊を愛し、その魂に責任を持っている。普段の生活で命を養ってくれるものはあるが、本当の危機には頼れない。良い羊飼いであるイエス様はご自分の命と引き換えに私たちにゾーエの命を与えてくださった。イエス様の十字架の救いの業は、私たちに霊的な命を与える。イエス様によって永遠が約束されているなら、私たちは何物をも恐れることはない。

Ⅱ.羊の門
イエス様はまたご自分を羊の門と呼ばれた。門は違う内と外の世界をつなぐ境目にある。門は凱旋門、ブランデンブルク門などシンボルとしての存在でもある。イエス様という救いの門を通って私たちは救われ、守られ、永遠の命に生きる。イエス様は、私は…であるとヨハネ福音書で繰り返し語られる。本日以外は「わたしは命のパンである」(6:35・51)、「わたしは世の光である」(8:12/9:5)、「わたしはよみがえりであり命である」(11:25)、「わたしは道であり真理であり命である」(14:6)、「わたしはまことのぶどうの木である」(15:1・5)。これらの言葉は日常使われるものだが、イエス様が言われると意味は違う。この世のものを越えた唯一のものである。イエス様の門によらなければ救いに与れない。

Ⅲ.一つの群れとなる
イエス様はあなたがたに言うと目の前の会衆に語られた。さらにその場にいない人々を、「この囲いにいない他の羊」と言われ、全人類に呼びかけられている。21世紀もグローバル化と言われつつ、多極化・多様性・多元主義である。国に、地域に、紛争・テロ・格差がある。一つになるよりも、分断されるような思いがする。イエス様は全てを越えて、一つの群れ、一人の羊飼いと言われ、イエス様によって一つとなる。ついにとあるように、終末論的な受け止め方でもある。全ての人に福音が伝えられなければならない。永遠に向かって、全世界に向かってだが、先ずは私たちの周囲から始めていく。福音は人格から人格へと地道であっても確実な方法で伝えられる。私たち自身も福音を持ち運んでいくものである。

イエス様が良い羊飼いとして命を捨て、門として招かれる救いに与ろう。神様の恵みに一つとなれるように主の働きを進めていこう。