聖 書 使徒行伝6章1~7節
6:1 そのころ、弟子の数がふえてくるにつれて、ギリシヤ語を使うユダヤ人たちから、ヘブル語を使うユダヤ人たちに対して、自分たちのやもめらが、日々の配給で、おろそかにされがちだと、苦情を申し立てた。
6:2 そこで、十二使徒は弟子全体を呼び集めて言った、「わたしたちが神の言をさしおいて、食卓のことに携わるのはおもしろくない。
6:3 そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。その人たちにこの仕事をまかせ、
6:4 わたしたちは、もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」。
6:5 この提案は会衆一同の賛成するところとなった。そして信仰と聖霊とに満ちた人ステパノ、それからピリポ、プロコロ、ニカノル、テモン、パルメナ、およびアンテオケの改宗者ニコラオを選び出して、
6:6 使徒たちの前に立たせた。すると、使徒たちは祈って手を彼らの上においた。
6:7 こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。

金 言 そこで、兄弟たちよ、あなたがたの中から、御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち七人を捜し出してほしい。(使徒6:3)

 

昨日はお隣の教会中山キリスト教会の河野正之先生のお葬儀に行って来ました。河野先生はこの地で33年間の長きにわたって伝道牧会に尽力されました。そのため男女問わず大勢の教会員が涙をこらえておられたのが印象的でした。悲しみがあってもキリスト者の葬儀は死を超えた天国の希望があるので感謝です。
今朝は使徒行伝から初代教会に起きたある問題とその解決法について学びます。

1.教会に問題が起きる
エルサレム教会は迫害にもかかわらず弟子たちは熱心にキリストを宣べ伝えたため、信じる人は次々に起こされました(2:40~42)。ところが教会に集まる人が増えるにしたがってひとつの問題が持ち上がったのです。原始教会ではささげ物を困っている人に配給をしていました。当時は福祉制度が発達していませんから教会が夫に先立たれたやもめたちの面倒をよく見て、救済活動をしていました。教会にはヘブル語を話すユダヤ人のやもめたちとギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちの二グループがいました。ユダヤ人の中にはバビロン捕囚以来、地中海沿岸に離散したので外国で生まれ育った人々がいました。彼らは当時の通用語であるギリシャ語を話しました。このギリシャ語を話すユダヤ人のやもめたちに対して配給がおろそかにされているのではないかという苦情が教会内に出てきたのです。真偽のほどは確かではありませんが不平等感を訴えた人たちがいたわけです。
わたしも子供時代に人数分におやつのケーキを分けるときは、どちらのピースが大きいか、どちらを取ったら得するか目を皿のようにして悩んだものです。昔から食べ物のうらみは恐ろしいと言います。教会の分裂分派は些細なことから始まります。誤解や勘違いであっても火種が大きくならないうちに消し止めておくことです。見過ごせない問題に発展する前に十二使徒たちは解決に当たります。

2.問題を解決する取り組み
 十二使徒たちは福音を宣べ伝えることにもっと集中したいにもかかわらず、教会が運営するやもめたちの配給という救済活動が支障をきたしていました。そこでこの問題を解決するために策を考えなければならなくなりました。そのことに対処できる人を選出することにしました。みことばのご用をするのではなくて、いわゆる食物の配給係ですからだれにでもできそうです。しかしこの奉仕に当たる人を選ぶ基準はけっこう厳しいものでした。その条件は「御霊と知恵とに満ちた、評判のよい人たち」を七人選び出すことでした。つまり神様としっかりとつながった敬虔な人であると同時に、人格的に誰もが認める好人物であることでした。霊的でありながら近寄りがたい孤高の存在ではなく気さくで温かい人柄を捜しました。教会の役員になる方はこんな方ばかりだとその教会の未来は明るいですね。選ばれた7人は「信仰と聖霊とに満ちた人」でした。使徒たちは「祈って手を彼らの上においた。」(6)とありこの行為は権限を委譲する行為でした。こうして選ばれた7人はギリシャ語を語るユダヤ人たちでした。問題の処理にはその問題を提議して苦情を述べたグループであるギリシャ語を話すユダヤ人から世話人を選んで、その人たちに担当させました。同じ言語を話す世話人とやもめたちは親密な信頼関係が保てました。

 3.すべての問題は祝福の基である
 どんな教会にも問題は起こってきます。教会に何も問題がないと考えていることが意外に問題であることもあるかもしれません。教会が問題にどのように取り組みどうやって解決していくかで、その後の発展が違います。このとき十二使徒の取った解決策は「もっぱら祈と御言のご用に当ることにしよう」と本来の宣教に専念できる体制づくりを提案したことでした。そしてこの提案には会衆一同が賛成しました。この問題を解決した後に教会はどうなったでしょう。それは7節を読むと「こうして神の言は、ますますひろまり、エルサレムにおける弟子の数が、非常にふえていき、祭司たちも多数、信仰を受けいれるようになった。」とあり、問題が祝福に変えられたことをわたしたちは知ることが出来ます。教会は問題を避けて問題にあえて触れないのではなく、神様の下にその問題を持っていくとき必ず解決に導かれるだけでなく、それを乗り越えた後には祝福が待っているのです。