聖 書:エペソ5:15~21

(15)そこで、あなたがたの歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、
(16)今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである。
(17)だから、愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟りなさい。
(18)酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ御霊に満たされて、
(19)詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、主にむかって心からさんびの歌をうたいなさい。
(20)そしてすべてのことにつき、いつも、わたしたちの主イエス・キリストの御名によって、父なる神に感謝し、
(21)キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである。

「はじめ人酒を飲み、半ば酒酒を飲み、終わり酒人を飲む」という諺があります。酒は昔から「気違い水」と言われ、多くの人々の人生を狂わせました。思えば人間はいつの時代であれ、どこの国であれ、何かに酔わなければ生きて行けない生き物なのでしょうか。聖書は「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである。むしろ、御霊に満たされて・・」と勧めています。聖霊の盈満とは、御霊に満たされると言う意味です。

Ⅰ.御霊に満たされる必要性
初代教会の時代背景は概略1世紀頃で、ローマ帝国が実権を握っていた時代です。そうした社会にあって人々は常に「神の国とこの世・神とサタン・権力者と庶民」の構図の中で翻弄されてきました。それは21世紀に至るまでの人類の歴史であると言っても決して過言ではありません。パウロはそうした時代にあって「歩きかたによく注意して、賢くない者のようにではなく、賢い者のように歩き、今の時を生かして用いなさい。今は悪い時代なのである」(15-16)と看破しています。選民イスラエルの歴史を通して強く知らされることは、人はどこまでも罪人であって、神に従うよりもサタンに味方する方を選んだ、ということです。換言すれば、それだけサタンの力の方が強かったということです。ですから「愚かな者にならないで、主の御旨がなんであるかを悟」(17)る必要があるのです。

Ⅱ.御霊に満たされることの意味
「酔う」という表現には語弊があるかも知れません。表現を変えれば、「何に価値をおくのか。何に熱中するのか、何に生き甲斐を覚えるのか」と言うことでしょう。もう少し分かり易く言えば〈あなたの関心は何に向いているか、あなたの心は何で満たされているか〉と言うことではないでしょうか。パウロは「わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている」(ローマ7:19)という現実に悩んだ人でした。「欲している善」とは、「神の律法を喜ぶ」(22)ことであり、「欲していない悪」とは、「肢体に存在する罪の法則」(23)を意味しています。こうした苦悶からパウロが解放されたのは、「キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死の法則からあなたを解放した」(8:2)というキリストの贖罪の事実を、より深く理解し、信じ、受け入れたことにありました。「御霊に満たされる」とは、私たちの罪のために贖いの死を遂げて下さったイエス様と身も心も一つになることを意味しています。

Ⅲ.御霊に満たされた生活
聖書は「御霊に満たされて」と教えています。元訳聖書では「宜しく霊に満さるべし」と命令形になっています。コップに水を一杯、溢れるように注ぎなさい。半分でもなく、八分目でもなく、口から溢れるように注ぎなさい、と命令されているのです。この箇所では「御霊に満たされて、詩とさんびと霊の歌とをもって語り合い、・・さんびの歌をうたいなさい。・・父なる神に感謝し、キリストに対する恐れの心をもって、互に仕え合うべきである」(19-21)と記されています。御霊に満たされる生活とは、いつも神様の求められること、喜ばれることに心が向けられ、隣人に対する関心で心が満たされている生活を意味しています。

御霊の実は「愛・喜び・平和・寛容・慈愛・善意・忠実・柔和・自制」です。私たちの心がいつも神と人に向けられ、御霊の実で心が満たされるように願います。