聖 書:ローマ12:1~2

(1)兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
(2)あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。

今日から今年度の指針、=神の愛に応える-礼拝・祈祷-、礼拝をテーマに連続で語る。教会は日曜日に礼拝に集まるということは一般にも知られている。礼拝は初代教会から今日まで続けられ、これからも主イエス様の再臨まで守られ続けていく。礼拝は教会の基本線、生命線である。礼拝を短く言うならば、ご自分を現される啓示の神様と教会に集まる神様の民が公に会見することである。群れ全体が集まることに意味がある「民は皆ひとりのようになって」(ネヘミヤ8:1)。

Ⅰ.神様の聖なる臨在が表わされる
旧約の初めからノアやアブラハムが祭壇を築き礼拝している。公の礼拝はモーセが十戒を授与される場面から始まる。大きく、荒野の時代は会見の幕屋での礼拝、イスラエル王国時代はエルサレム神殿での礼拝、捕囚後は各地の会堂での礼拝となる。イエス様が立たれて神の国が来た。「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。」(マタイ18:20)信じる者の只中に神様は臨在される。イエス様によって礼拝も一新され、イエス様ご自身につながっている。

Ⅱ.神様が御言葉を語られる
神様は観念的な無言の存在ではなく私たちに語りかけられる。ヨハネ1:1に「言は神であった。」とある。旧約時代には預言者や詩人が神様の言葉を語り、新約時代にはイエス様ご自身が、使徒や信徒たちが神様の言葉を語っている。イエス様は生ける神の言葉であった。聖書は新しくても2千年近く前に記されている。現代と言う時代に、目の前の会衆に神の言葉を通訳するのが講壇で語られる御言である(Ⅰテサロニケ2:13)。

Ⅲ.神様が教会を形造られる
礼拝には信徒が集合する。「教会は集合することによって神を礼拝し、交わりを深める。また分散することによって信徒各自に与えられた使命を遂行し、社会に奉仕する。」-由木康師。礼拝で御言によって信仰者の心が呼び覚まされる。賛美や祈りによって心が引上げられる。信仰告白によって一つに結び合わされる。聖礼典によって養われる。疲れ、傷つき、気力を失ったものが、生かされ、癒され、活力が与えられていく。Ⅰコリント14:26「徳を高める」オイコドメーは建設する、育成するという意味である。教会は集まることによって自らを育成する。

Ⅳ.神様に栄光が帰される
人間は神様の創造の冠でありながら、罪に沈んでしまい、滅びる者となった。神様は回復の道を備えてくださった。イエス様の十字架の贖いによって救われる道が開かれた。新しい生きた道によって人間は本来の姿に立ち帰ることができる。神様と一つに結び合わされ、罪と汚れにある者が聖なる神様を礼拝し、死ぬべき者が永遠である神様を崇めることができる。ヨハネ黙示録での天上の礼拝(ヨハネ黙示録5・7章参照)には、あがなわれた者全てが神様に栄光を帰する礼拝が出てくる。最終的な完成形がここにあるが、私たちが地上で行う礼拝も神様に栄光を帰するものである。

礼拝はこの世にあって天とつながっている。礼拝によって私たちは整えられ、力をいただき世に遣わされていく。私たちの生活、信仰の中心に礼拝がある。