聖 書:ヨハネ3:16~21
(16)神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(17)神が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われるためである。
(18)彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである。
(19)そのさばきというのは、光がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことである。
(20)悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない。
(21)しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされるためである。

「真髄」とはそのものの本質、物事の根本となるものを意味します。憲法がすべての法律の真偽を判断する規準であるように、すべての物事にはそれぞれに規準や規範と呼ばれるものがあります。「福音の真髄」とは、人間の生き方の規準・規範を意味しています。私たちは「聖書は誤りなき神の言葉であり、信仰と生活の規準」であると告白します。
聖書は「福音(良い知らせ)」と呼ばれます。それは聖書の真髄が福音である、という意味です。それでは「福音の真髄」とは何を指しているのでしょうか。

Ⅰ.生命の規準
ヨハネ3章16節は「聖書の中の聖書」と呼ばれ、聖書の真髄を見事に表しています。この中には、聖書の中心メッセージの要素である「①神、②ひとり子(キリスト)、③この世、④信仰、⑤永遠の命」がすべて含まれています。この句の目的が「御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るため」であることは明白です。沖縄方言では「命どぅ宝(ぬちどぅたから)」と呼ばれます。確かに命にまさる宝は他にはありません。しかし、それが「命はかけがえのないもの、人生は一度かぎりのもの」という意味であれば、聖書の真髄としての「永遠の命」の意味とは本質的に異なります。聖書の示す「永遠の命」とは神の命であり、人間の堕落によって失われていた命が、神の愛の発露としてのキリストの贖罪によって、すべて信ずる者に無代価で提供されているものなのです。

Ⅱ.審判の規準
この世には真偽が混在し、それを審判することは困難なことです。アーミンの毛皮はイギリスでは純潔・公平のシンボルとして、多くの貴族や判事の服装に用いられています。アーミンはプライドの高い動物なので、猟師はアーミンの習性を利用してその巣を汚物で汚します。アーミンは自分の毛皮が汚されるよりはむしろ血で染められることを選び、銃口に向かってばく進するのです。聖書は「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者は、すでにさばかれている」と述べています。この世の法的問題は司法によって審判されますが、不条理なことが余りにも多く存在しています。その要因は真の審判者を認めないところにあります。聖書は「人をさばくな、自分がさばかれないためである」(マタイ7:1)、「自分で復讐をしないで、むしろ、神の怒りに任せなさい」(ローマ12:19)、「互に責むべきことがあれば、ゆるし合いなさい」(コロサイ3:13)と記しています。

Ⅲ.信仰と倫理の規準
最近、各種のハラスメント(嫌がらせ、いじめ)が問題になっています。倫理の規準が曖昧になって来ているのです。そもそも救主イエスが光としてこの世に来られたとき、世はイエスを拒絶しました。現在もなお、この世は「光とやみ、悪と真理、愛と憎しみ」の判断を正しく下すことが出来ません。そうした中で聖書は明確に「悪は光よりもやみのほうを愛した、悪を行っている者はみな光を憎む、光にこようとはしない、真理を行っているものは光に来る」と信仰と倫理の規準を記しています。こうした規準はイエスは具体的に「山上の教え」や「神を愛せよ、隣り人を愛せよ」(マルコ12:30、31)において示されました。

「福音の真髄」は、すべて神の愛から出ています。すべての規準は神の愛にあります。神の愛に満たされることの中に、すべての規準が全うされるのです。