聖 書:ローマ13:8~11
(8)互に愛し合うことの外は、何人にも借りがあってはならない。人を愛する者は、律法を全うするのである。
(9)「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」など、そのほかに、どんな戒めがあっても、結局「自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ」というこの言葉に帰する。
(10)愛は隣り人に害を加えることはない。だから、愛は律法を完成するものである。
(11)なお、あなたがたは時を知っているのだから、特に、この事を励まねばならない。すなわち、あなたがたの眠りからさめるべき時が、すでにきている。なぜなら今は、わたしたちの救が、初め信じた時よりも、もっと近づいているからである。

聖書は旧約と新約から成り立っています。旧約は神と人との間で交わされた旧い契約、新約は新しい契約を表しています。旧約の内容は律法と呼ばれます。律法とは人間が正しく生きていくために神が与えられた指示や指導を意味し、人間の行為を求めます。新約の内容は福音と呼ばれます。福音とは律法の要求を十字架において成就されたキリストの救いを意味し、福音は人間の信仰を求めます。キリストは「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。」(マタイ5:17)と言われました。旧約と新約とは遮断ではなく、十字架によって連結されているのです。

Ⅰ.律法破りの人間
律法の律には、〈決まり、法則、約束、整える〉という意味があります。わが国古代の政治形態は隋や唐の影響によって造られた律令制度でした。この場合の律とは刑法、令は行政法を表しています。旧約における律法は便宜上、道徳律法、祭儀律法、聖潔律法などに分類されますが、基本となるのはモーセの十戒です。神はこの律法をイスラエル民族の民法、刑法、道徳法、商法、祭儀法の中心に据え、彼らを導かれました。しかし、残念ながらイスラエル人の歴史に描かれているのは律法破りの人間の姿でした。そうした現実はアダムとエバの犯した原罪を受け継いでいる人間としては当然の結果でした。彼らの犯した罪は、真の神に対する不信仰と偽りの神に対する偶像崇拝として具体化したのです。

Ⅱ.愛は律法の本質
イエスは律法学者が「律法の中で、どのいましめがいちばん大切ですか」と質問した際に「あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない」(申命記6:5)。「あなた自身のようにあなたの隣人を愛さなければならない」(レビ記19:18)と旧約の言葉を引用されました。また「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」という質問に対して、「律法にはなんと書いてあるか、あなたはどう読むか」と反問され、律法学者が旧約の言葉を引用した際に「あなたの答えは正しい。その通り行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」と答えられました。律法の精神は「愛神愛隣」に凝縮されるのです。

Ⅲ.愛によって完成される律法
「言うは易く行うは難し」と言われます。私たちは人から愛されなければ人を愛することはできません。厄介なことに律法の問題は倫理や道徳のレベルではなく、神と人間との間で交わされた契約だと言うことです。モーセが神から十戒を授かった際、神は「あなたがたが、わたしの契約を守るならば、あなたがたはわたしの宝となる」と言われ、民は「みな行います」と答えたのです。ですから律法を破る者には「わたしを憎む者には、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし」(出エジプト20:5)という厳しい審判が下されるのです。キリストは十字架においてこの審判を全人類に代わって受け、律法の要求に応えて下さいました。聖書は「ここに愛がある」(Ⅰヨハネ4:10)と教えています。

キリストによる贖いによって、私たちは律法を完成した者とされました。聖書は同時に「人を愛する者は、律法を全うする」と教えています。キリスト者は決して無律法者ではありません。私たちにはキリストによって与えられた新しい律法として、互いに愛し合い、隣人を愛することが求められているのです。