聖 書:ガラテヤ6:1~5

(1)兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、反省しなさい。
(2)互に重荷を負い合いなさい。そうすれば、あなたがたはキリストの律法を全うするであろう。
(3)もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。
(4)ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。
(5)人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。

釈迦は人生には四大苦「生病老死」があると教えています。徳川家康の遺訓に「人の一生は重荷を負って遠き道を行くが如し 急ぐべからず」がありま
す。キリストは「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)と私たちを招き、「
自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。」(マタイ16:24)と命じています。パウロは「互に重荷を負い合いなさい。…自分自身の重荷を負うべ
きである」と勧めています。

Ⅰ.重荷を負う人生
人生には様々な患難や試煉や苦難などが襲ってきます。そうした一般的な重荷とは別にキリスト者の負うべき重荷があります。パウロは5章の終わり
で「御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。」と勧めています。キリスト者は
本来キリストの霊を宿していますから、霊の人です。しかし霊の人であっても罪過や誘惑や傲慢や欺瞞に陥る可能性のあることをパウロは指摘していま
す。更に加えて主イエスが各人に与えられた「重荷=十字架」があります。それは「主は愛する者を訓練し、受けいれるすべての子をむち打たれる」(ヘ
ブル12:6)とあるように、私たちを聖別し、キリストに似た者とされるために負わせられる十字架です。

Ⅱ.重荷を負い会う
「重荷は二人で担うことによって半減し、喜びは倍増する」と言われます。「負い合う」とは他人の重荷も喜びも自分のことのように受け止めること
ではないでしょうか。阪神や東日本大震災の際に最も必要とされたのは「罹災者と寄り添う」ことでした。社会は対面型アナグロ社会から、機械型デジ
タル社会へと変容し、お互いのコミュニケーションが稀薄になっている現代において、「互に重荷を負い合いなさい」とは、神からの適切なメッセージ
ではないでしょうか。牧師であり、家族心理学者である堀肇先生は「どのような言葉に優しさや励ましを感じるか」というアンケート結果として「『あ
りがとう、ごめんね、大丈夫?』・・『ありがとう』は『感謝すること』、『ごめんね』は反省し『悔い改めること』、そして『大丈夫?』は『配慮(ケ
ア)すること』」であると書いておられます。(「PBAだより」1月号)。

Ⅲ.自分自身の重荷を負う
人生には人それぞれに担うべき重荷があります。この重圧を回避するために必要なことは、他人に対する無関心な態度を改め、孤立状態から脱却する
ことです。そのためには互いに他人に対する関心度を高め、コミュニケーションを密にし、「互に重荷を負い合う」ことです。そのことによって自分自
身の重荷=十字架を負うことができるようになり、結果的に「キリストの律法(神を愛し、人を愛する)を全うする」ことになるのです。今後活用すべきは
IT社会に見るネットワークの構築です。教会の伝道も時代に合った方策が必要となります。他人の十字架は軽く小さく見え、自分の十字架は重く大きく
見えますが、神様はあなたに最も適切な十字架を与えておられることを受容するところに最大の慰めと解決があるのです。

「あなたがたを耐えられないような試煉に会わせることはないばかりか、試煉と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるのである
。」(Ⅰコリント10:13)、「患難は忍耐を生み出し、忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出すことを、知っているからである。」(ローマ5:3~5)