聖 書:ゼカリヤ4:1~10

(1)わたしと語った天の使がまた来て、わたしを呼びさました。わたしは眠りから呼びさまされた人のようであった。
(2)彼がわたしに向かって「何を見るか」と言ったので、わたしは言った、「わたしが見ていると、すべて金で造られた燭台が一つあって、その上に油を入れる器があり、また燭台の上に七つのともしび皿があり、そのともしび皿は燭台の上にあって、これにおのおの七本ずつの管があります。
(3)また燭台のかたわらに、オリブの木が二本あって、一本は油をいれる器の右にあり、一本はその左にあります」。
(4)わたしはまたわたしと語る天の使に言った、「わが主よ、これらはなんですか」。
(5)わたしと語る天の使は答えて、「あなたはそれがなんであるか知らないのですか」と言ったので、わたしは「わが主よ、知りません」と言った。
(6)すると彼はわたしに言った、「ゼルバベルに、主がお告げになる言葉はこれです。万軍の主は仰せられる、これは権勢によらず、能力によらず、わたしの霊によるのである。
(7)大いなる山よ、おまえは何者か。おまえはゼルバベルの前に平地となる。彼は『恵みあれ、これに恵みあれ』と呼ばわりながら、かしら石を引き出すであろう」。
(8)主の言葉がわたしに臨んで言うには、
(9)「ゼルバベルの手はこの宮の礎をすえた。彼の手はこれを完成する。その時あなたがたは万軍の主が、わたしをあなたがたにつかわされたことを知る。
(10)だれでも小さい事の日をいやしめた者は、ゼルバベルの手に、下げ振りのあるのを見て、喜ぶ。これらの七つのものは、あまねく全地を行き来する主の目である」。

2016年の新年度が始まる。先週は復活日・イースターを迎え、本年は良い区切りが与えられている。新年度に当たって今回・次回は本年度の教団聖句から語らせていただく。

Ⅰ.失望と停滞の時代に
ゼカリヤ1:1が記すダリヨス王の第二年とは、紀元前520年であり、国を失ったバビロン捕囚後の時代である。先のクロス王の紀元前536年に帰還が許されたが、直ぐにイスラエルに帰った人々は少なかった。エズラ2:64・65を見ると5万人ほどである。ゼルバベルとヨシュアによってエルサレムの再建が始まった。神殿の基礎はすぐに据えられて人々は喜んだ(エズラ3:10以下)。その後、イスラエルの敵対者がやってきて工事は中断し、その状態は14年間も続いた。神の宮を再建し、イスラエルを復興させようと、意気揚々始まった事業が頓挫してしまい、失望落胆は大きかった。神様を中心にせず、自分の生活、自分の満足を求めていた(ハガイ1:4)。現代日本のキリスト教会にも共通部分はあろう。この時代に立てられた預言者がハガイであり、ゼカリヤであった。

Ⅱ.勇気を出しなさい
ハガイ2:4には、ゼルバベルよ、勇気を出せ、大祭司ヨシュアよ、勇気を出せ、すべての民よ、勇気を出せ、わたしはあなたがたと共にいるとある。ゼカリヤ4:6は関西聖書神学校の存立の御言でもある。主の働きの前進は、①権勢によらない。この言葉は人間の力、富、軍事力を指す。権勢は直接にはペルシャ王で、エルサレム再建には王の許可があり、資金が使われた。この世の力は必要だが、それだけなら世渡りの知恵が一番大切になる。②能力によらない。神様は人間に能力を備えられた、能力も必要である。人間の力だけであるなら人数が多い方が良い。少数者のユダヤの民は勝ち目がなくなってしまう。③わたしの霊による。パウロはピリピ3章前半で「肉を頼みとしない」と言っている。肉とは人間や、この世を指すが、パウロはそれも十分に持っている。しかし、キリストの力ははるかに勝っている。イエス様に満ちていた聖霊が私たちに働かれることが、神様の業の前進になる。

Ⅲ.圧倒的な働きがある
神様の霊が働かれるなら、大いなる山も平地となる。神様の大いなる働きは一瞬でなされ、人間業では及ばない。山が平地となるとは比喩であり、直接には王の助けがなくとも、敵がどんなに強くとも、神殿は完成しエルサレムは復興することである。そしてゼカリヤの時代を越えて、私たちにも及んでいる。私たちの前には大いなる山が立ちはだかっていても、神様の霊により頼み、神様の霊が働かれる時に圧倒的な業がなされる。神様の霊が働かれやすい私たちであろう。神様の群れに神様の霊が働かれた姿は初代教会に見られる。使徒行伝2:43以下には群れに一致、きよさ、愛が満ちている。そこに聖霊が働かれた。

ユダヤの民は失望落胆し、日常生活に埋もれていった。私を仰げ、私の霊を求めよと神様は呼びかけられた。私たちも神様に応えていこう。神様の大いなる業を見せていただこう。