聖 書:申命記4:25~31
(25)あなたがたが子を生み、孫を得、長くその地におるうちに、道を誤って、すべて何かの形に刻んだ像を造り、あなたの神、主の目の前に悪をなして、その憤りを引き起すことがあれば、
(26)わたしは、きょう、天と地を呼んであなたがたに対してあかしとする。あなたがたはヨルダンを渡って行って獲る地から、たちまち全滅するであろう。あなたがたはその所で長く命を保つことができず、全く滅ぼされるであろう。
(27)主はあなたがたを国々に散らされるであろう。そして主があなたがたを追いやられる国民のうちに、あなたがたの残る者の数は少ないであろう。
(28)その所であなたがたは人が手で作った、見ることも、聞くことも、食べることも、かぐこともない木や石の神々に仕えるであろう。
(29)しかし、その所からあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして、主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。
(30)後の日になって、あなたがなやみにあい、これらのすべての事が、あなたに臨むとき、もしあなたの神、主に立ち帰ってその声に聞きしたがうならば、
(31)あなたの神、主はいつくしみの深い神であるから、あなたを捨てず、あなたを滅ぼさず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう。

度重なる地震や津波などによって痛感することは自然の力の大きさです。それに反して性懲りもなく欲望の追求に血眼になっている人間の愚かさと哀れを感じます。こうした現状の原因は、権威ある存在者=創造神を認めない人間の傲慢さにあります。
聖書は一義的にはイスラエル民族史と言えます。しかし本質的には創造主がイスラエル民族史を標本にして全人類に伝えようとしておられる「義と愛」の書物なのです。聖書には権威ある創造主の存在と人間として守るべき規範が明確に記されています。
「申命」とは〈重ねて命令する〉という意味です。つまりシナイ山において与えられた律法を、40年後、約束の地を眺望するモアブ高地において、モーセがイスラエル人に「重ねて命令」(説教)した記事が申命記なのです。ここでモーセは律法の確認と主への忠誠を勧めています。

Ⅰ.イスラエルに対する戒め (25-28)
主イエスは律法を要約して「心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。」(マルコ12:30-31)と教えられました。これらの言葉は前者は申命記に後者はレビ記に記されています。イスラエル民族がエジプトを脱出してからすでに40年の歳月が経過しています。出発当時誕生した者は40才、40才の者は80才、モーセは120才を迎えていました。そして約束の地に入り得たのはヨシュアとカレブの2名だけだったのです。モーセが気がかりなことはカナン入境後のイスラエル民族の信仰の在り方です。そこで必死の思いで律法遵守の重要性について重ねて語り聞かせています。仮定の話として、もし民が偶像礼拝に陥るならば民は全滅し、離散の憂き目に合い、やがては偶像に仕えるようになると戒めています。

Ⅱ.イスラエルに対する忠誠の勧め (29-30)
聖書の神は「義と愛」の神ですが、どちらかといえば「愛」の面が強いのです。そもそも「義と愛」は相容れないものであって、義を立てれば愛は退き、愛を立てれば義が退きます。ここに神ご自身の中に矛盾とジレンマが生じます。そこで両者を両立させるためにイエス・キリストをこの世に遣わされたのです。このことがクリスマスに実現したのですが、律法時代においても「神の愛」を私たちは見ることができます。ここでは「しかし、そのところからあなたの神、主を求め、もし心をつくし、精神をつくして主を求めるならば、あなたは主に会うであろう。」と言われています。つまり人間が罪を犯したとしても、主に立ち帰ってその声に従うならば、神は赦し、受けいれて下さると言うのです。ですからモーセはどこまでも神に忠誠を尽くすことを勧めているのです。

Ⅲ.イスラエルに対する臨在の約束 (31)
何というおおらかで、懐の深い神様でしょうか。ところが旧約聖書の神の印象と言えば、何々を守らなければならない、何々をしてはいけない、と言う律法的な、厳しい神という印象を私たちは持ちやすいのです。しかし実際は「慈しみ深い神」です。日々神を愛し、神に従う生活を送っているならば、否、もしその道から逸れるようなことがあったとしても、悔い改めて神に立ち返るならば、神は私たちを受けいれて下さるのです。何よりも幸いなことは、主の臨在の約束です。「あなたを捨てず、またあなたの先祖に誓った契約を忘れられないであろう」と力強く宣言して下さっています。

「私にとって最も良いことは、神が共にいますことである」(J・ウエスレー)。臨在の主を崇めつつ、喜びと感謝の毎日を送らせて頂きましょう。