聖 書 使徒行伝1章9~11節

(9)こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
(10)イエスの上って行かれるとき、彼らが天を見つめていると、見よ、白い衣を着たふたりの人が、彼らのそばに立っていて
(11)言った、「ガリラヤの人たちよ、なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。

皆さん、最近空を見上げたことがありますか。雲一つない抜けるような青空は見上げただけで気持ちをさわやかにしてくれます。夏の入道雲はふんわりした真綿のようで、私は子どものころあの上に乗れたらさぞや気持ちが良かろうとたびたび夢想しました。また人は日の出に希望を見出し、夕焼け雲は郷愁を呼び覚まします。星空や夜空に浮かぶ月を眺める時には神秘的な気持ちになります。人は天を仰ぐとき自分を超えた大いなる方を思います。(詩篇8:1,3篇)

1.復活されたイエス様に会う喜び
今年のイースターは3月27日でした。あっという間にこの一か月が過ぎ行きました。ところで聖書の記述によればイエス様が復活された後の40日は、当時の人々にとっては毎日が驚きと歓声の連続でした。というのも主はあちらこちらのあらゆる人々に同時に姿を現され、ある日は弟子たちを励ましたと思えば、他の日は女たちを勇気づけたりされました。人々はイエス様の十字架による死とそれに続く埋葬を行って完全に死に打ちのめされた後に、よみがえられたイエス様にお会いする感動の対面をしました。聞きなれたあのみ声、懐かしいその笑顔など、信じがたい神の奇跡に対する喜びで興奮が収まりません。確かに目の前に現れたこのお方こそはよみがえられたイエス様なのです。よみがえられたイエス様に会った人々の目を引き心を痛めたのはイエス様の手首に残る釘の後でした。しかし主の復活と傷跡は私たちの罪の赦しを有言に物語る証拠となりました。

2.天に帰るイエス様を送る寂しさ
イエス様は40日間、何度も弟子たちに姿を現されました。当然弟子たちは、今度こそイエス様がイスラエルをローマの属国から解放してくださり苦しみと屈辱から立ち上がる時が来たと勇気と希望を持ちました。それゆえイエス様に「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。(6)と見当違いな願いをもってイエス様に詰め寄る者も出てくる始末です。イエス様は先走る弟子たちの気持ちを沈めるように「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。」と語り「あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」(5)と言われて、信じる者おのおのに聖霊が与えられるのを待ちなさいと言われました。イエス様はこういい終えると驚くことに彼らが見ている間に空中にすぅっと上げられ、お身体はみるみる間に雲に包まれて、見えなくなられたのでした。弟子たちは成す術もなくイエス様が天に昇って行かれるのをただポカンと口を開けて見ていました。弟子たちはてっきり主がよみがえられたのだから、これからは私たちとずっと一緒に過ごせると安心していました。ところがイエス様が離れて天に帰られてしまい、取り残された気持ちになり再び心細い思いになりました。

3.再臨の主の約束を待つ希望
そんな弟子たちの前に二人のみ使いが現れて「なぜ天を仰いで立っているのか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになるであろう」。(11)と言われました。これを「再臨」と言います。イエス様は神の子どもたちとなったイエス様の救いを信じる人々を天国に迎えるために(ヨハネ14:2,3)神様のご計画を完成させるために、まもなく再びこの地上に戻ってこられるのです。弟子たちは去って行ったイエス様の代わりを、祈って待つと天から聖霊様が下って来られペンテコステを体験しました。(ヨハネ15:7)ですから私たちにはいつもイエス様が共にいてくださるのです。(ヘブル13:5)とは言え今は近くにいてもイエス様は目に見えないし、触って確かめることもできません。しかしイエス様は必ず輝くみ姿で私たちを迎えるために天から下って来られるのです。そう信じて「イエス様早く迎えに来てください。」と祈りながら大空をもう一度仰いで見ると、私たちはいつもイエス様の大きな愛に包まれて暮らしている気がつきます。今悩んでいる事もきっと神様が最善に導かれるに違いないと信じる事ができるなら、そこに新しい希望が与えられるのです。教会は新しい場所に移転しました。どんな年になるかまだわかりませんが、いつでも心は天を仰いで新しい年度も前進しましょう。主は必ず再び来られます。