聖 書:ピリピ3章10~16節
3:10 すなわち、キリストとその復活の力とを知り、その苦難にあずかって、その死のさまとひとしくなり、
3:11 なんとかして死人のうちからの復活に達したいのである。
3:12 わたしがすでにそれを得たとか、すでに完全な者になっているとか言うのではなく、ただ捕えようとして追い求めているのである。そうするのは、キリスト・イエスによって捕えられているからである。
3:13 兄弟たちよ。わたしはすでに捕えたとは思っていない。ただこの一事を努めている。すなわち、後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ、
3:14 目標を目ざして走り、キリスト・イエスにおいて上に召して下さる神の賞与を得ようと努めているのである。
3:15 だから、わたしたちの中で全き人たちは、そのように考えるべきである。しかし、あなたがたが違った考えを持っているなら、神はそのことも示して下さるであろう。
3:16 ただ、わたしたちは、達し得たところに従って進むべきである。
前回の題は「律法に生きたパウロ」で、今回の題は「福音に生きるパウロ」である。パウロの生き方が復活のイエス様と出会って180度変わった。イエス様と出会った時点から過去と現在が全く違うことを改めて感じる。
Ⅰ.ただ自分を見つめる
今朝は10節からを読んでいただいた。原文では8節から11節までが一つの文であり、文章ではなく内容から9節と10節の間で区切った。9節「キリストのうちに自分を見いだすようになるためである。」に戻って考えたい。「見いだす」はギリシャ語の中態で自分自身が見いだす、他人から見いだされるという両方の意味を持つ。イエス様を第一に生きることが、自分勝手な熱心さだけではなく、他人からも認められるものであることを示す。イエス様を中心とした生き方は自分のためであり、他人のためである。その生き方が10節に述べられている。イエス様の十字架の死とよみがえりと「ひとしく」とあるように、当てはめていくという。私にはできませんと言いたい。しかし、パウロが持つような切実さと緊迫感、ひたむきさを私たちは持っているだろうか。
Ⅱ.ただ前へと進む
13・14節に進む。パウロの信仰の宣言とも言うべき有名な箇所になる。パウロがただひたすらにイエス様を求め、従っていくひたむきさを感じる。12節でも完全な者になっていない、13節で捕えてはいないと言う。完全は私にはなく神様にしかない。私たちが完全を目指すということは神様に少しでも近づきたいという願いである。私たちを捕え、留めるものは、へブル12:1に「いっさいの重荷と、からみつく罪」とある。私たちの重荷であるこの世の試練、自分を責める多くの罪がある。私たちを否定的にし、自分をさいなむ思いを与える。?ペテロ5:7は「神はあなたがたをかえりみていて下さるのであるから、自分の思いわずらいを、いっさい神にゆだねるがよい。」とある。「ゆだねる」とは投げつけるという強い意味がある。思い煩うことなく、神様に一切をお任せして良いのである。
Ⅲ.ただ従い行く
15・16節には違った考えを持っていたとしても、それぞれが達しえたところに従って歩めばよいと記されている。自分の信仰に従って進むことが勧められている。各自がと言っても各々がばらばらな方向ではない。それぞれが達したレベルに応じるが目指すのは主ご自身である。達しえたところは違うが、人との比較や優劣などを気にかけなくとも良い。この私が神様に愛され、生かされていることをしっかりと確信している。この確信が私たちを自信と誇りを持って力強く歩ませるための基礎となる。周りの声も、状況が悪くとも自分に対して心安んじ、憩いを得ることができる。人の評価に関わりなく全力を尽くすことができる。
神様に愛されていることが私たちの最も基礎であり、この愛に根差していくならば、私たちは揺るがない。神様の前に力強く歩むことができる。白樺派の武者小路実篤の言葉「この道より我を生かす道はなし、この道を行く。」私たちを活かす主の道を歩もう。