聖 書:イザヤ9章1~7節
9:1 しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
9:2 暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
9:3 あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。
9:4 これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。
9:5 すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
9:6 ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
9:7 そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。

先週は中島秀一師からイザヤ40章、先々週は井上がイザヤ7章を語った。本日はメシア預言の中心の一つであるイザヤ9章、今年の待降節はイザヤ書講解になった。イザヤ書は内容から大きく前半が39章まで、後半が40章から始まる。前半は神の義、背信のイスラエルの裁きについて、後半は神様のあわれみ、イスラエルの回復が語られている。

Ⅰ.背景となるもの
無論、前後半が完全に分かたれているのではなく、今朝の9章は回復の預言から始まる。1節のゼブルン、ナフタリの苦しみ、やみ、はずかしめは光栄に変わる。ゼブルン、ナフタリは北王国イスラエルにあってアッシリヤの最初の侵略を受けた。やがて首都サマリヤも陥落し北王国は滅びる。70年前の敗戦でも国が亡くなる経験を日本はしていない。個人的に愛する人を失うことは大きなことだが、故国が滅亡するという喪失感は想像できない。4節に支配者のくびきやむちがミデアンの日のように折られるとある。ミデアンの日とは士師記7章のギデオンの精兵300人の戦いの勝利を指している。1節から4節は直接にはバビロン捕囚からの解放というやがてなされる勝利と回復が語られている。

Ⅱ.中心となるもの
イザヤの勝利と解放の預言で直近にはバビロン捕囚が起こり、その後の勝利と回復である。その先に起こるのが、6節の「ひとりのみどりご」の誕生である。イエス様の誕生の預言である。7節を新共同訳・新改訳では「霊妙なる議士」は驚くべき指導者(新共)、不思議な助言者(新改)、「大能の神」は力ある神(新共・新改)、「とこしえの父」は永遠の父(新共・新改)、「平和の君」(3訳共に同じ)である。「霊妙なる議士」の議士とはカウンセラーと英訳される。イエス様は個人的な助言と助けを与えてくださる。イエス様は全能の神であって力と権威をお持ちである。イエス様は永遠なる御方としていつでも時間を越えて関わってくださる。イエス様は私たちの心に平安を与え、終末には完全な平和を備えてくださる。

Ⅲ.原動力となるもの
イエス様がお生まれになる700年も前にその性格も知らされていた。イエス様の誕生は人が熱心に祈り求め、人が一生懸命努力した結果、この世にお生まれになったのか。イエス様誕生時、ユダヤの支配はギリシャからローマに移り、独立国家の主権はなかった。精神的な苦しみ、経済的な困難、異教がはびこるといった痛みがおおっていた。しいたげの中で人々は失望していたが、7節「万軍の主の熱心がこれをなさるのである。」とある。万軍の主はイザヤが多用した特徴的な言葉である。力を失っていたイスラエルだが、力ある主が働かれる。イザヤ43:13後半「わたしがおこなえば、だれが、これをとどめることができよう。」神様の力がこれをなされる。

クリスマスは一人のみどりご、小さな、弱い赤ちゃんの誕生であった。このみどりごは驚くべき神の大能を持ち、歴史を個人を造り変える変革であった。私が変えられる、周囲が変えられる、世界が変わっていく。