聖  書:ルカによる福音書17章11~19節
17:11 イエスはエルサレムへ行かれるとき、サマリヤとガリラヤとの間を通られた。
17:12 そして、ある村にはいられると、十人のらい病人に出会われたが、彼らは遠くの方で立ちとどまり、
17:13 声を張りあげて、「イエスさま、わたしたちをあわれんでください」と言った。
17:14 イエスは彼らをごらんになって、「祭司たちのところに行って、からだを見せなさい」と言われた。そして、行く途中で彼らはきよめられた。
17:15 そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、
17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。これはサマリヤ人であった。
17:17 イエスは彼にむかって言われた、「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。
17:18 神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」。
17:19 それから、その人に言われた、「立って行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのだ」。

「らい予防法」は1907年に制定され、1996年に廃止されました。その間の隔離政策によって多くの患者は苦しみました。聖書の時代から「重い皮膚病」の人々は「差別された人々」でした。イエスが彼らに近づかれたことに私たちは目を向けなくてはなりません。

Ⅰ.差別に屈しない信仰
「彼らは遠くの方で立ちとどまり、声を張りあげて、『イエスさま、わたしたちをあわれんでください』と言った」のです。レビ記13章45-46節には「重い皮膚病にかかっている患者は「『わたしは汚れた者です。わたしは汚れた者です』と呼ばわらねばならない。」(新共同訳)と記されています。彼らはイエスに近づきたくても近づけない。癒して下さいと言いたいけれども言えない。そうした中で、彼らは決して諦めないで、叫んだのです。ここに差別に屈しない、自己を鼓舞する信仰を見ることができます。

Ⅱ.イエスの言葉に従う信仰
イエスは「祭司たちのところへ行って、からだを見せなさい」と言われました。本来ならば、イエスは彼らの病を癒した後、その判断を祭司たちに委ねる筈です。しかし、ここでは「からだを見せなさい」と言う一言だけです。彼らにとっては[イエスさま、本当に見せるだけで良いのですか。大丈夫ですか。]と言うような不安があったに違いありません。ただ確かなことは「行く途中で彼らはきよめられた」ということです。彼らは祭司の診断に期待するよりも、イエスの言葉に期待して従ったのです。「従うことは犠牲にまさり、聞くことは御羊の脂肪にもまさる」(サムエル上15:22)のです。

Ⅲ.イエスに感謝し、神を崇める信仰
「そのうちのひとりは、自分がいやされたことを知り、大声で神をほめたたえながら帰ってきて、イエスの足もとにひれ伏して感謝した」のです。イエスは「きよめられたのは、十人ではなかったか。ほかの九人は、どこにいるのか。神をほめたたえるために帰ってきたものは、この他国人のほかにはいないのか」と嘆息されました。この違いを解く鍵は「自分が癒されたことを知り」にあります。つまり神の恵みに対する認識の程度、感性の違いにあります。日本語の「ありがとう」は「有り難し」が変化したもので、[有ることが難しい]こと、[あり得ないこと]を意味しています。反対語は[あたりまえ]です。私たちは神様や人様から頂いた恵みや厚意を[あたりまえ]として受け止めてはいないでしょうか。たとえ僅かなものであっても[ありがとう、有り難し、あり得ない]という程の感性をもって応えているでしょうか。彼は重い皮膚病を癒されただけでなく、神をほめたたえる者とされたのです。そこでイエスはこの彼に対して「あなたの信仰があなたを救った」と言われたのです。

水は低いところに流れるように、神の恵みも謙遜な人に注がれるのです。聖書は「みな互に謙遜を身につけなさい。神は高ぶる者をしりぞけ、へりくだる者に恵みを賜うからである。」(Ⅰペテロ5:5)と教えています。