聖 書:ヨハネによる福音書14章27~31節
14:27 わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
14:28 『わたしは去って行くが、またあなたがたのところに帰って来る』と、わたしが言ったのを、あなたがたは聞いている。もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くのを喜んでくれるであろう。父がわたしより大きいかたであるからである。
14:29 今わたしは、そのことが起らない先にあなたがたに語った。それは、事が起った時にあなたがたが信じるためである。 14:30 わたしはもはや、あなたがたに、多くを語るまい。この世の君が来るからである。だが、彼はわたしに対して、なんの力もない。
14:31 しかし、わたしが父を愛していることを世が知るように、わたしは父がお命じになったとおりのことを行うのである。立て。さあ、ここから出かけて行こう。
 わたしたちは毎日の健康と安全が守られて、予定していた通りに物事は運び、周りの人との関係も良好で争いや問題がなく、心配や悩みが続かなければ安心いられます。でも人間ですから忘れ物をしたとか間違えちゃったなど、小さい失敗から大病や大けが、思いがけない悪い出来事が起きるなど心配の種は毎日尽きません。どうしたらいつも平安でいられるでしょう。
1. 心の平安はどこから
イエス様は十字架にかかられる前夜、弟子たちを集めて最後の晩餐を開きました。イエス様は弟子たちとの地上における最後のひとときをいつくしまれながら、はっきりと「わたしは去っていく」と言われました。弟子たちの心はさわぎ出していました。いままでイエス様を先生と慕ってこの方こそイスラエルを救うために来られたメシヤ(救い主)であると信じて、ガリラヤから神の国を伝えるために旅してきたのに、わたしたちはこれからどうすれば良いのか。弟子たちが動揺する姿にイエスは「わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。」約束されました。この平安は世が与えるものとは違います。世が与える平安は良い学校や会社、健康であること、家庭に問題がない、財産があるなどです。しかしこれらが与える平安は本物ではありません。何かが欠けると平安は失われてしまいます。人間が不安になる原因は、神様から罪を抱えたまま離れたからで悪いことが起きると罪の負い目を感じて、神様が与えた罰だと思い込んでします。本当の平安は神様と和解することで与えられるのです(ローマ5:1)。イエス様が罪深い人間の代わりに、呪いの十字架で死んでよみがえってくださったと信じる時、心の罪とやましさは消えて神の子どもとして生まれ変わります。この揺るぎない平安はイエス様の十字架と復活と一体なのです。
2. どんなときにも平安でいる
さてイエス様を信じて救われて信仰を持っても、当然ですが人生には悪いことも起こってきます。困ったことや悩むことが減るわけではないのです。そんな時には荒れる波を恐れておぼれかけたペテロを思い出します(マタイ15:28~31)。イエス様だけを見て水上を歩き出したペテロでしたが、波(問題・悩み)に目を落として恐怖心が心を占める、平安は失われおぼれかかります。どんなときにも平安でいるために、とこしえの平安を与えると約束されてイエス様から目をそらさず、この方といつもつながっていることです。「わたしから離れては、あなたがたは何一つできないからである。」(ヨハネ15:5)。復活され天に帰られたイエス様に代わって聖霊が助け主として来られ、イエス様を信じる者と共におられます。聖霊を求めて頼り祈る時「そうすれば、人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安が、あなたがたの心と思いとを、キリスト・イエスにあって守るであろう。」(ピリピ4:7)
3. 平和をもたらす平安な人
心にどんなときにも平安がある人はなんと幸福でしょう。それは自らの幸福感にとどまることなく、平安はあなたの周りにいる人々にも広がって幸せに巻き込み平和をもたらす人です。イエス様は言われました。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう。」(マタイ5:9)。真に平和をつくり出す人は人間の正義感、道徳心、倫理観からは生まれません。それはイエス様の十字架によって神様と和解して、神様との間に平和を回復していただき、その平和を隣人との間に広げる人です。