聖 書:ヨハネによる福音書 第7章37~44節
7:37 祭の終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。
7:39 これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
7:40 群衆のある者がこれらの言葉を聞いて、「このかたは、ほんとうに、あの預言者である」と言い、
7:41 ほかの人たちは「このかたはキリストである」と言い、また、ある人々は、「キリストはまさか、ガリラヤからは出てこないだろう。
7:42 キリストは、ダビデの子孫から、またダビデのいたベツレヘムの村から出ると、聖書に書いてあるではないか」と言った。
7:43 こうして、群衆の間にイエスのことで分争が生じた。
7:44 彼らのうちのある人々は、イエスを捕えようと思ったが、だれひとり手をかける者はなかった。

ヨハネ福音書も7章に進む。7章は仮庵の祭の時の話である。3大祭りの一つで、秋の収穫感謝から始まった祭である。時期は今頃、9月の終わりから10月の初めにかけての8日間行われる。イスラエルの荒野の40年間を記念する意味は後から加わった。

Ⅰ.人々が見たもの
7章は今読んでいただいた聖霊を下すという約束の箇所が中心になる。前後の記事が長く、前後で何が言われているのかというと、イエス様は誰なのかという問い、イエス様はどこから来たのかという問いである。イエス様は救い主なのかという問いかけであった。私たちはいつも評価にさらされている。生い立ち、学歴、資格、資産・財産、… 仕方がないことでもあるが、外面的な基準で判断が下されやすい。この世の判断では、人の内にある見るべきものを見損なってしまうこともある。イエス様は、人間的に見るならば、地方のナザレ出身、金持ちでも有力者でもない大工ヨセフの息子である。多くの人々はイエス様をこの世の基準で判断したが、そのような見方で神様を見出すことはできない。

Ⅱ.イエス様の語ったもの
7章の初めにはイエス様の兄弟たちが、ユダヤで自らを表すように、仮庵の祭のあるエルサレムに行くように言った。好意的に言ったのではなく、家族もイエス様を理解せず、間違った見方をしていた。イエス様は仮庵の祭に行かれ、祭の最後の日に立って、「わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう。」(38節)と叫ばれた。流れ出る生ける水とは聖霊を指すと言われた。荒野、砂漠に命は絶えているが、水が流れる所に命があふれていく。神様の生ける水であるので、普通の命を越えた命が与えられて行く。聖霊によって神様の命、力、愛に満ちることができる。聖霊の川の源流はイエス様である。イエス様につながらなければ聖霊の恵みに与ることはできない。先に話したように人は自分の見方でイエス様を判断しようとする。イエス様は考えることではなく、私を飲む、私を信じる、この2つの体験を求めておられる。

Ⅲ.人が受け止めたもの
43節には群衆の間でイエス様を信じる者、信じない者が生まれて分争が生じたと記している。その後には祭司長、パリサイ人が遣わした使いの者たちは、イエス様の語る言葉に権威を認めたことが書かれている。最後に3章に出てきたニコデモがイエス様について冷静な答えをして、祭司長、パリサイ人が怒ったことが出てくる。イエス様に会って、素直に信じる者たちもあった。何がイエス様を信じることを留めさせるのか。大きな原因は思い込みや偏見ではないか、信じることが狭い、窮屈な世界につながれると感じているのではないか。
私も、かつて偏見に満ち、自己中心の塊であって、イエス様をなかなか信じられなかった。私の考え方が間違っていることを示してくださった人たちがあり、助けと導きとなった。私たちも喜びを持って、聖霊により頼み、人に接する者となろう。