聖 書:ヨハネによる福音書 第6章30~40節
6:30 彼らはイエスに言った、「わたしたちが見てあなたを信じるために、どんなしるしを行って下さいますか。どんなことをして下さいますか。
6:31 わたしたちの先祖は荒野でマナを食べました。それは『天よりのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです」。
6:32 そこでイエスは彼らに言われた、「よくよく言っておく。天からのパンをあなたがたに与えたのは、モーセではない。天からのまことのパンをあなたがたに与えるのは、わたしの父なのである。
6:33 神のパンは、天から下ってきて、この世に命を与えるものである」。
6:34 彼らはイエスに言った、「主よ、そのパンをいつもわたしたちに下さい」。
6:35 イエスは彼らに言われた、「わたしが命のパンである。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決してかわくことがない。
6:36 しかし、あなたがたに言ったが、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。
6:37 父がわたしに与えて下さる者は皆、わたしに来るであろう。そして、わたしに来る者を決して拒みはしない。
6:38 わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。
6:39 わたしをつかわされたかたのみこころは、わたしに与えて下さった者を、わたしがひとりも失わずに、終りの日によみがえらせることである。
6:40 わたしの父のみこころは、子を見て信じる者が、ことごとく永遠の命を得ることなのである。そして、わたしはその人々を終りの日によみがえらせるであろう」。

9月も先週のがん哲学外来、昨日のオープンチャーチと大きな恵みをいただき感謝。御奉仕、御支援くださった方々に感謝をささげる。自然界の秋を迎え、霊的な実りを求めて行こう。

Ⅰ.パンの奇跡
ヨハネ6章は5千人の給食の記事から始まる。一人の男の子のお弁当だった大麦のパン5個と魚2匹で男性だけで5千人が養われたという感動の記事である。四福音書全てに記されている唯一の奇跡として大きな位置を持つ。その意味合いは、癒しや甦りなどの個人的な恵みの奇跡ではなく、その場の全員が与るという集団の恵みであった。また、思想的観念的な話ではなく、食べて満腹したという実体験そのものであった。他の奇跡と同じく、イエス様は必要な働きをされたのであって、売名・広告行為ではなく、王としようとする人々から一人で逃れられた。嵐の湖を渡って向こう岸の話になる。

Ⅱ.イエス様の元に留まる
パンの奇跡は大切と話してきたが、ヨハネはその続きの方に力点を置き、その後の話の方が重要であるかのように話が続いていく。ユダヤ人たちは、出エジプトの時代、シナイの荒野でのマナの奇跡を引き合いに出した。イエス様は天からのパンであったマナよりもさらに勝るものを示された。ご自分が命のパンであると宣言された。荒野のマナは神様からの賜物であったが、食べれば無くなってしまう、採りすぎれば腐ってしまうものであった。イエス様から命のパンをいただくために、「わたしに来る」(35節)ことは、行いとしてイエス様の元に留まることである。「わたしを信じる」(同)ことは、心の内にイエス様を持ち続けていくことである。行いも心もイエス様から離れないことが、命のパンであるイエス様に養われていく秘訣である。

Ⅲ.永遠への守りと平安
イエス様がこの世に来られたのは、神様の御心に従い、御心を行うためであると言われた(38節)。神様の御心とは、イエス様の元にある魂が一人も失われないためである。神様は神様を信じ、従う者を守られる。信仰は自分一人で守ると意気込みやすいが、神様が保ってくださるからこそ守られもしている。終わりの日によみがえりも神様の御心である。この世での信仰の歩みの守りと共に、終わりの日のよみがえりは永遠における守りである。この世の歩みでも、御国に移されても確かな守りと導きがあることは、完全な守りであり、動かない平安を持つことができる。

罪の解決と永遠の問題に回答が無い宗教は卑小なものであると言われます。罪など眼中にないのであれば、人間の良心はどこにあるのでしょうか。永遠がないとすれば、この世の楽しみが全てになります。罪と永遠を見つめることは私たちを正しい歩みに導くことなのです。命のパンであるイエス様は私たちの罪を取り除き、永遠へと生かす御方です。