聖 書:ペテロの第一の手紙 第1章22~25節
1:22 あなたがたは、真理に従うことによって、たましいをきよめ、偽りのない兄弟愛をいだくに至ったのであるから、互に心から熱く愛し合いなさい。
1:23 あなたがたが新たに生れたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変ることのない生ける御言によったのである。
1:24「人はみな草のごとく、その栄華はみな草の花に似ている。草は枯れ、花は散る。しかし、主の言葉は、とこしえに残る」。
1:25 これが、あなたがたに宣べ伝えられた御言葉である。

迫害という苦難の中に生きるキリスト者のために書かれたペテロの手紙の中では、繰り返し、キリスト者とはどのよう存在であるかが語られつつ、なすべきことについての勧めがなされている。1章の前半において神様からの選びと守り、救いの完成の希望、そしてキリストを愛する喜びが語られており、その上で、聖なる者となること、主を恐れかしこんで生きることについての勧めがある。1章の最後から、愛し合うことと、神のことばによって生きることについて聞いていきたい。

Ⅰ 愛し合いなさい(22)
「真理に従う」とは、福音を信じたことをさす(エペソ1:13)。「たましいをきよめ」とあるが、これは自分の力で行ったことではなく、神様がなしてくださったことである。きよめられることによって兄弟愛をいだくに至った、それ故に熱く愛し合いなさいとの勧めがある。「熱い愛」とは、「最大限に伸ばした愛」という意味がある。目一杯、愛し合いなさいという勧めである。ある注解者はこの勧めは「いったんあなたがたは聖さにおいて成長し始め、その結果あなたがたはお互いにほんとうの愛情を持っているからには、お互いに愛する愛を熱心で深く強いものとしなさい」という意味であると語る。人間的にはとても次元の高いことが勧められているが、その前提にはイエス・キリストの十字架と復活がある。まず私たちに、一方的にキリストの愛が注がれ、イエスを主とする告白と信仰に導かれ(Ⅰコリント12:3)、聖霊がいつも共にいてくださるが故に、愛することができるのである。
OMF(国際福音宣教会)という、ハドソン・テーラーを創始者として150年の歴史を持つ宣教団体の会議に出席した。日本にも約130人の宣教師が送られている。その団体今後の宣教課題として「霊的覚醒(リバイバル)の必要」と「傷ついた人々と共に歩む」ということを語っていた。歴史も実績もある宣教団体が、みことばを述べ伝えるとともに愛することも大切にし、言葉と実践の両方によっての宣教の働きを行っていく決意を新たにしていたのが、印象的であった。
私たち一人一人ができる兄弟愛の実践は何だろうか。家庭や職場、遣わされている場所や関係の中で、まず自分が神様に深く愛され、救いが与えられていることを覚えつつ、御霊に導かれて愛する者でありたい。

Ⅱ 神のことばによって生きる(23-25)
引用されているのは、イザヤ40:6-8の言葉である。私たちが救われたのは、みことば、すなわち神の言葉を聞いて、それを信じたからである。この世界の創造も、神のことばによってなされたものである。私たちは神のことばを聞いて、信じて、永遠の命が与えられたのである(ロマ10:10)。そして神のことばを土台とする価値観を持ち、日々歩んでいく。私たちの情熱、動機、行いが神のことばに沿っていないものであるならば、真の力が湧き、実を結ぶようなことにはならないだろう。
神の存在を認めずに、何か他のものによりすがっても、それらはやがて朽ちてしまうものである。みことばこそが私たちに知恵と力、希望を与え、愛に生きる者とさせてくださる。聖霊の照明によって、私たちははみことばを悟ることができる。日々のディボーションや聖書通読、暗唱聖句を大切にし、私たちの心が良い地であるように整えていただき、神のことばによって生きていくものでありたい。