聖 書:ヘブル人への手紙 第12章1~4節
12:1 こういうわけで、わたしたちは、このような多くの証人に雲のように囲まれているのであるから、いっさいの重荷と、からみつく罪とをかなぐり捨てて、わたしたちの参加すべき競走を、耐え忍んで走りぬこうではないか。
12:2 信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。彼は、自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び、神の御座の右に座するに至ったのである。
12:3 あなたがたは、弱り果てて意気そそうしないために、罪人らのこのような反抗を耐え忍んだかたのことを、思いみるべきである。
12:4 あなたがたは、罪と取り組んで戦う時、まだ血を流すほどの抵抗をしたことがない。

新約聖書のなかでは、信仰生涯をわかりやすく理解を助けるために、競技やスポーツにたとえて教えています。古代ギリシャでは、オリンピックの発祥の地オリンピュアで競技大会が開かれました。日本でも2020年に東京オリンピックが開催されることになり、アスリートたちは東京オリンピックでメダル獲得をめざして、日夜練習に励んでいます。今日のヘブル12章は「参加すべき競走」(1)とか「走ろう」(2)からわかるように、信仰生涯をマラソンなどの長距離走にたとえています。

Ⅰ.信仰の走路を完走するために
12章のはじめで「こうゆうわけで」とあるのは、前章11章には旧約聖書に登場するアベルからサムエルまで、16名の信仰の先達の勇者がつぎつぎに挙げられています。彼らを「多くの証人」(1)とたたえているのです。信仰の模範者としてこれらの証人がたとえ雲のように囲んでいても、わたしたちクリスチャンが信仰生涯の馳せ場を走りぬくには、それなりの秘訣があります。
①重荷を取り除くことです。重荷となるのは思い煩いです。たとえばあなたは中身の詰まった重いリュックサックを背負って、コースを走っていると想像してみてください。誰でも早く荷を下ろして身軽になって競走に参加したくなります。思い煩いにとらわれると、判断力が鈍くなり霊的な力は弱まり颯爽と走ることはできなくなります。
②からみつく罪を取り除くことです。罪はことば巧みに私たちを誘います、罪の誘惑は「急ぐことはなく楽しんで遊んで行けば良い。違法だが困難を避けてラクに行く道があるよ。」と誘い掛けます。罪には手口が三つあります。誰も見ていないから、一度きりだから、このくらい誰でもやっていると罪を容認させる口実をもうけます。罪の性質はからみつく(新改訳は「まとわりつく」)ものですから走行を妨げます。走者は障害物を「かなぐり捨てて」ゴールを目指します。黙々とゴールだけをめざす長距離ランナーは孤独に見えます。人生の競走も山あり谷ありで、喜びだけでなく試練に苦しんで、ときには詩篇23篇のように「死の影の谷」を通り過ぎることがあっても、ひたすら「耐え忍んで走りぬこう」と聖書は励まします。

Ⅱ.イエスから目をそらさずに
視覚障害のあるマラソンランナーには伴走者が付きます。競技者のそばについて走り、走路や給水所の位置を知らせ、安全に競技が行えるようにするのが伴走者です。わたしたちの信仰の導き手はイエス様です。このお方の御声に耳を澄ませ信頼して付き従うことです。「導き手」を新改訳と新共同訳では「創始者」と訳します。創始者は他の人たちのためにはじめに道を開く開拓者、先駆者、パイオニアです。イエス様は救いの先達でありわたしたちのために神様に向かう道のりを十字架によって備えられました(ヨハネ14:6)。それゆえ彼はわたしたちを栄光のゴールに導くことができます。またイエス様は信仰の完成者です。人の造られた目的は神の栄光を現すことです。そのためイエス様は人としてのご自分の願いではなく、神様のみこころを第一としてそれを行うことを優先されました(詩篇40:8)。 「イエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。」(2)とあるように、信仰生涯は常にイエス様から目を離してはいけません。イエス様のご生涯は「自分の前におかれている喜びのゆえに、恥をもいとわないで十字架を忍び」(2)とあるように、全人類の罪を贖うために多くの苦しみを味わわれました。こうして現在でも天のみ座に着かれた偉大な大祭司なのです。イエス様は罪人の反抗を忍ばれたお方です(ルカ23:34)。「弱り果てて意気そそう」しないためにも、(「心が元気を失い、疲れ果ててしまわない」新改訳)、このお方を仰ぐとき新たな力に満たされ、信仰の道を完走できるのです(Ⅱテモテ4:7)。