聖 書:イザヤ書 第40章1~3節
40:1 あなたがたの神は言われる、「慰めよ、わが民を慰めよ、
40:2 ねんごろにエルサレムに語り、これに呼ばわれ、その服役の期は終り、そのとがはすでにゆるされ、そのもろもろの罪のために二倍の刑罰を主の手から受けた」。
40:3 呼ばわる者の声がする、「荒野に主の道を備え、さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。

次聖日12月3日にアドベント・待降節を迎え、12月10日は50回記念メサイア公演となる。礼拝説教でもメサイアとリンクしてほしいとの意見をいただいた。今回から礼拝説教で3回続けてメサイアの聖書箇所から取り上げる。音楽性は適任の方々に譲るが、大曲であるメサイアの背景に触れていただきたい。

Ⅰ.ユダヤの民への慰め
メサイアの歌詞はこの聖書箇所から、第2番、テナーの叙唱によって始まる。1節から「民よ 悩む民よ 民よ 涙去りて 聞けや 聞けや 汝が神 慰めたもう 汝が神 慰めたもう」と中田羽後師は訳された。原文では「慰めよ、慰めよ」と2重の命令形によって始まる。
イザヤ書は内容から前半・後半に2分されるが、この40:1から後半になる。後半の最初の言葉が「慰めよ」であるとは大きな意義がある。ユダヤの民は慰めを必要としていた。人々が痛み、苦しみ、悩んでいた状態はどのようなものだったのだろうか。イザヤは、やがて起こる預言として神様から言葉を授かっている。
イザヤの時代、北王国イスラエルはアッシリヤによって滅ぼされようとしていた。イザヤが活動した南王国ユダにも危機は迫っていた。イザヤから百年余り後、ユダも滅ぼされバビロン捕囚が起こる。その70年後ペルシャ帝国の時代にユダヤの民はイスラエルに帰還できる。この「慰め」とは第一にバビロンの地からの解放を指している。
200年ほど後のことをイザヤは語る。神様の預言は、神様の真実を表し、歴史の事実として起こっていく。

Ⅱ.メサイア到来による慰め
「慰め」はバビロンからの解放に留まらない。イザヤから700年後、イエス様は慰めを宣言された。山上の説教のマタイ5:4「悲しんでいる人たちは、さいわいである、彼らは慰められるであろう。」である。悲しみとは私たちが味わう人生の労苦、悲哀とまず言える。さらに、聖書で言う悲しみとは、Ⅱコリント7:9-10にあるように物事・状況の良し悪しから起こるこの世の悲しみを越えて、自分自身への悲しみである。神様を痛め、人を苦しめ、自分を卑しめる罪を見つめ、認めることである。認罪と悔い改めの呼びかけはイエス様が来られる前の荒野のヨハネに表されている。3節「聞け 聞け 荒野の声を 道を整えて 迎えまつれ 救い主を」と中田羽後師は訳された。
人々に罪の悔い改めを迫り、神様に立ち帰るようヨハネは荒野で叫んだ。しかし、ただ罪の指摘だけであるなら、迫られた人には失意、怒り、否定、弁解が生まれる。自分の真実から目をそむけず、神様に明け渡して行くことは聖霊の働き無くして起こり得ない。罪から私たちを解き放つメサイア、油注がれた者、救い主イエス様をヨハネは指し示した。
イエス様の十字架の死による罪の赦しがあって、神様からの真の慰めを受ける。

「慰めよ」という短い一言葉こそ、神様の愛と真実を指し示している。イザヤの時代の民に、バビロン捕囚を解かれた民に、ヨハネの叫びを聞いた民に語られた。今、私たちには十字架による救い主イエス様が明らかである。この世の慰めを越えて、最も深い慰めをイエス様から与えられよう。