聖  書:コリント人への第一の手紙 第15章20節
15:20 しかし事実、キリストは眠っている者の初穂として、死人の中からよみがえったのである。

先週、第50回記念メサイア公演に大きな祝福を拝し、感謝は尽きない。メサイア聖書箇所の第三回、メサイア第三部の最初の第45番、「贖い主は生く」から語る。中田羽後師はⅠコリント15:20より「あがない主は生く、おわりの日に彼は地の上に立ちたまわん…」と作詞された。第三部は救世主の復活から始まる。十字架で死なれたイエス様が復活の初穂としてよみがえられた。私たちもここに希望があり、永遠にいたる栄光につながっている。第三部は分量的には短いが栄光、勝利、誉の凱歌で閉じられていく。

Ⅰ.死は眠りである
日本では死は忌むべきものとされてきた。或いは、死は滅亡であるとも考えられてきた。死が滅びであるなら、死に尊厳などなく、丁重な葬儀も必要ない。死をおろそかにすることは人格を軽んじることである。キリシタンの時代、キリスト教拡大要因の一つは丁寧な葬儀にあった。… 死について、ここで聖書は「眠っている」と表現する。眠っている者であるから、目覚める時が来る。?テサロニケ4:13には「兄弟たちよ。眠っている人々については、無知でいてもらいたくない。… あなたがたが悲しむことのないためである。」とある。この後、再臨の時に死者が栄光の体で、よみがえることが語られている。ローマ14:9は「なぜなら、キリストは、死者と生者との主となるために、死んで生き返られたからである。」とある。生きている者と死んだ者をつなぐのは、よみがえられたイエス様である。

Ⅱ.主はよみがえりである
次に、イエス様はよみがえりの初穂となられたとある。イエス様の復活は私たちもやがてよみがえりの日を迎える希望である。初穂は神様にささげられ、大切であるが最初の一株であって、その後に続くものが本体となる。私たちもイエス様のよみがえりに続くことが大事である。ローマ8:11には「もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。」とある。よみがえりは聖霊によってなされる。聖霊は、私たちが生きている時も死んだ後も責任を持って導かれる。

Ⅲ.死のとげは取り払われた
禁じられた木の実を食べたアダムの陥罪以来、生きる苦難と死がもたらされた。ローマ6:23前半「罪の支払う報酬は死である。」が厳しい事実である。ローマ人への手紙5章が語るようにアダムによってもたらされた罪(5:12)は、イエス様の義(5:17)による贖いという解決が与えられた。ローマ6:23後半には「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである。」が続くのである。Ⅰコリント15章に帰って、本章の最後は死の力、死のとげから私たちが解放される勝利が賛美されている。

中世の格言に「生命の只中において、私たちは死によってかこまれている」がある。誰もが死という現実の中にあるが、私たちにはよみがえりの命に永遠に生きるという未来が示されている。クリスマスに降誕されたイエス様が与えてくださる最高の賜物である。