聖  書:ヨハネによる福音書 第14章6~17節
14:6 イエスは彼に言われた、「わたしは道であり、真理であり、命である。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない。
14:7 もしあなたがたがわたしを知っていたならば、わたしの父をも知ったであろう。しかし、今は父を知っており、またすでに父を見たのである」。
14:8 ピリポはイエスに言った、「主よ、わたしたちに父を示して下さい。そうして下されば、わたしたちは満足します」。
14:9 イエスは彼に言われた、「ピリポよ、こんなに長くあなたがたと一緒にいるのに、わたしがわかっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのである。どうして、わたしたちに父を示してほしいと、言うのか。
14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることをあなたは信じないのか。わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである。
14:11 わたしが父におり、父がわたしにおられることを信じなさい。もしそれが信じられないならば、わざそのものによって信じなさい。
14:12 よくよくあなたがたに言っておく。わたしを信じる者は、またわたしのしているわざをするであろう。そればかりか、もっと大きいわざをするであろう。わたしが父のみもとに行くからである。
14:13 わたしの名によって願うことは、なんでもかなえてあげよう。父が子によって栄光をお受けになるためである。
14:14 何事でもわたしの名によって願うならば、わたしはそれをかなえてあげよう。
14:15 もしあなたがたがわたしを愛するならば、わたしのいましめを守るべきである。
14:16 わたしは父にお願いしよう。そうすれば、父は別に助け主を送って、いつまでもあなたがたと共におらせて下さるであろう。
14:17 それは真理の御霊である。この世はそれを見ようともせず、知ろうともしないので、それを受けることができない。あなたがたはそれを知っている。なぜなら、それはあなたがたと共におり、またあなたがたのうちにいるからである。

教会ではイエス様の十字架の受難を前にレントの日々を過ごしている。先週2月25日に戸田伸一兄が天に召され、葬儀が執り行われた。教会の草創期、駒込時代からの尊い生きた証しをお持ちであったことを覚える。強い意思を持って闘病生活を送られ、信仰を貫かれ、家族のため、社会のため、教会のために生きた御方であった。

Ⅰ.弟子たちの問い
ヨハネ福音書の連続講解も14章に至った。イエス様の最後の晩餐の席上、惜別説教に当たる。1~5節はイエス様がなされた天国の約束である。聖書箇所、説教題は「父が子と共にあるように」であり、1年前から決まっていた。戸田兄の葬儀を終え御国を覚え、お父様が残されたご子息・ご息女と礼拝をささげ、神様の導きと備えを感じる。さて、5節に弟子のトマスはイエス様が何処に行かれるのか解らないと問う。時に私たちはどちらに進んで良いのか判断に迷い、見失うことがある。8節で弟子のピリポは父なる神様を見せてほしいと願った。ピリポが証拠と確信を求めたのは、彼も迷い、不安があった。

Ⅱ.イエス様の答え
道が解らないというトマスの問いに、6節でイエス様は私自身が道であると答えられた。車や人の道路、船や飛行機の航路など人が定めた道しか私たちは知らない。天国の約束に続いての話であり、天国に続く道である。天国への道はイエス様ご自身であると言われている。イエス様が道であるとは不思議な感覚だが、へブル10章20節にイエス様の十字架を通して開かれた「新しい生きた道」とある。イエス様が共にあり、助けられ、持ち運ばれる生きた道である。
神様を示してほしいとピリポは求めた。イエス様を見ることは神様を見ること、イエス様に聞くことは神様に聞くことである。ピリポは神様とイエス様が一つであることを解っていなかった。イエス様は10、11節で言葉とわざから信じなさいと言われた。ルカ24章にエマオ途上の弟子の話がある。この二人は19節「わざにも言葉にも力ある預言者」と言うが、イエス様の復活は信じていなかった。イエス様が生きた道であり、神様と一つであることをいかに信じうるのか。

Ⅲ.神様の備え
イエス様は聖霊を16節「助け主」、17節「真理の御霊」と呼ばれ、聖霊が共にあることを約束された。助け主は弁護者とも訳されるように聖霊は私たちを執りなされる。神様の真実を聖霊は教え、諭される。聖霊によって私たちは神様の真理に開かれ、助けられて神様の前に立ちうる者となる。17節には聖霊は「共におり」「あなたがたのうちにいる」とあるが、「うちにいる」は未来形であり「これからも、あなたがたの内にいる」(新共同訳)「うちにおられるようになる」(新改訳2017)と訳されている。聖霊は既に弟子たちの内にあるが、聖霊降臨の注ぎをも指す。私たちにも聖霊は今も共にあり、豊かな注ぎと満たしが約束されている。

イエス様は十字架へと向かわれ弟子たちは残されていく。聖霊は豊かに臨み、助け、教え導かれていく。真理の道であり、命の道であるイエス様ご自身の道を歩む者となろう。