聖  書:コリント人への第一の手紙 第12章1節~13節
12:1 兄弟たちよ。霊の賜物については、次のことを知らずにいてもらいたくない。
12:2 あなたがたがまだ異邦人であった時、誘われるまま、物の言えない偶像のところに引かれて行ったことは、あなたがたの承知しているとおりである。
12:3 そこで、あなたがたに言っておくが、神の霊によって語る者はだれも「イエスはのろわれよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない。
12:4 霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。
12:5 務は種々あるが、主は同じである。
12:6 働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
12:7 各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
12:8 すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
12:9 またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
12:10 またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
12:11 すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。
12:12 からだが一つであっても肢体は多くあり、また、からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。
12:13 なぜなら、わたしたちは皆、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、そして皆一つの御霊を飲んだからである。

今朝はペンテコステ・聖霊降臨日記念礼拝を迎えた。イエス様は十字架の贖いの死、神様の命を表された復活、栄光の内に天に帰られた。神様の御業はこれだけではない。約束された聖霊が降って、弟子たちが新たに造り変えられる。宣教の業がエルサレムから始まり、教会が生まれ、神様の働きが地の果てを目指して進んでいく。今朝の箇所から聖霊の働きを教えられよう。

Ⅰ.聖霊の業(1)、一人一人の信仰告白(1~3節)
コリントの教会に宛てられている。ギリシャ文化が多神教なのはギリシャ神話から明らかである。偶像の下にあった彼らが真の神様に立ち返ったことから思い起こせと勧められている。キリスト教に反対する人々は、十字架の主は呪われたものだと言う。この世の知恵、理解は2千年前も今も変わらない(1:18-25)。聖霊によって神様の真の光に照らされなければ、イエスは主であると告白できない。聖霊はどのように降るのか、使徒行伝1・2章の聖霊降臨を見るなら、弟子たちの心砕かれる祈り(自己否定)、心からの悔い改めの祈り(自己変革)があり、神様のみを求めた時に聖霊は降った。聖霊によって神様と私という信仰による関係が結ばれる。

Ⅱ.聖霊の業(2)、一人一人の賜物(4~11節)
聖霊の働きによって私たちは救いに与る。さらに聖霊は私たち個々に賜物を備えて下さる。ここに賜物のリストがある。知恵の言葉(8節、ソフィア)は神様の知恵の啓示である。知識の言(8節、グノーシス)は人間が理解する知識である。信仰(9節)は通常のものでは無く山をも動かす強い特別なものである。いやしの賜物(9節)は魂に働かれる主が、肉体と心にも届いて下さって整えられる。力あるわざ(10節)は必要に応じて神様は奇跡をなさることを表す。預言(10節)は今の時代では公同の説教である。霊を見わける力(10節)は真理の霊か偽りの霊か、神様からの霊か悪からの霊かを識別する。異言、異言を解く力(10節)は時と場合に必要なこともあるのだろう。しかし、14:19にあるように知性の言葉の方が優れている。一人一人の異なった賜物は教会の働きを豊かに進めていく。

Ⅲ.聖霊の業(3)、教会全体にある一致(12~13節)
聖霊は一人一人に救いの業をなして下さり、賜物を分け与えていて下さる。その上で私たちをキリストの体である教会に結び合わせて下さる。私たちは個々の体の器官であるという。循環器も、呼吸器も、消化器も、体幹も、皮膚も髪の毛も体に不要な器官はなく、全てが有用であるように私たちもそれぞれに必要な働きを担う。私たちは年令、性別、背景、考え方、性格…は違う。ペンテコステの日に初めて弟子たちは聖霊によって一つになったように、教会はばらばらの働きではなく、一致があり、調和があり、協調がある。教会に聖霊が豊かに働き、健全な調和が取れているときに全人的な成長へと向かっていく。

聖霊は個人的に救いの業に働いて下さり、私たちを活かして教会につながらせて下さる。私たちの賜物を用いられる。神様は私たち一人一人を用いようと願われている。