聖 書:ローマ人への手紙 第12章1~5節
12:1 兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。
12:2 あなたがたは、この世と妥協してはならない。むしろ、心を新たにすることによって、造りかえられ、何が神の御旨であるか、何が善であって、神に喜ばれ、かつ全きことであるかを、わきまえ知るべきである。
12:3 わたしは、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりびとりに言う。思うべき限度を越えて思いあがることなく、むしろ、神が各自に分け与えられた信仰の量りにしたがって、慎み深く思うべきである。
12:4 なぜなら、一つのからだにたくさんの肢体があるが、それらの肢体がみな同じ働きをしてはいないように、
12:5 わたしたちも数は多いが、キリストにあって一つのからだであり、また各自は互に肢体だからである。
今朝は間が空いたが、本年度の教会聖句ローマ12:1「兄弟たちよ。そういうわけで、神のあわれみによってあなたがたに勧める。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、生きた、聖なる供え物としてささげなさい。それが、あなたがたのなすべき霊的な礼拝である。」から語る。ローマ人への手紙は構造が解りやすい。前半1~8章の内容は教理である。人間論から始まり、義認、聖化、栄化という救済論である。中間9~11章では、パウロは同胞の救いを熱く語る。パウロの心情が吐露されている。後半12~16章の内容は生活の実践である。
Ⅰ.御心にかなうささげもの
後半の12:1は信仰生活の適用の最初になる。信仰生活で最初に考えるべきことは、礼拝である。パウロは「神のあわれみによってあなたがたに勧める。」と言う。17-18世紀の聖書学者ベンゲルは、「モーセは命じ、使徒は勧める」とここで記す。律法は強いられてであるが、福音は愛への応答である。勧める内容は身体をささげなさいということである。財や物を献げなさいであれば、持っていなければできない。身体をささげなさいとは自分が持つものの究極であり、誰もが持っている。人身御供のような恐ろしい話ではない。詩篇51:17には「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません。」とある。作者ダビデは王として何万頭もの犠牲の動物をささげられただろう、金銀の宝物を献納できただろう。へりくだり、砕かれた、悔いた魂こそが神様の喜ばれる生きた聖なる供え物である。
Ⅱ.御心にかなう礼拝
神様に砕かれた、自分自身をささげることが、なすべき霊的な礼拝だと言う。霊的なとは「ロギゲー」という言葉が使われている。神の言葉「ロゴス」に由来しており、ロゴスに一致したという意味である。霊的なとは神の言葉と一つであるという意味になる。ロゴスはイエス様ご自身でもある(ヨハネ1:1)ので、霊的なとはイエス様と一つであるという意味にもなる。私たちの存在、魂をささげていく礼拝が神様の御心、神様ご自身に合致した礼拝であるという。礼拝がいつも、へりくだった魂と真心からささげられるものであろう。ここから信仰生活の全ては始まっていく。万難を排して礼拝を守り1週間の始まりを神様と共に歩みだそう。
Ⅲ.御心にかなう信仰生活
このような礼拝と信仰を通して私たちは「造りかえられ」(2節)る。この言葉はメタモルフォ―である。理科で昆虫には完全変態と不完全変態があることを習った。姿が変わる蝶やセミは完全変態、そのままの姿で大きくなるバッタなどは不完全変態である。神様への魂からの真実な礼拝がささげられているのならば、その人の内に蝶やセミが羽化するような、ダイナミックな変化が起こる。神様の御心の内を、神様が善しとされる、神様が喜ばれる、神様が全きとされることをなすことができる。
礼拝が人を造り変え、新たにされていくものであり、礼拝によってキリストの体である教会が建て上げられていく。私たちも自身をささげていこう。