聖  書:テモテへの第一の手紙 第2章1~15節
2:1 そこで、まず第一に勧める。すべての人のために、王たちと上に立っているすべての人々のために、願いと、祈と、とりなしと、感謝とをささげなさい。
2:2 それはわたしたちが、安らかで静かな一生を、真に信心深くまた謹厳に過ごすためである。
2:3 これは、わたしたちの救主である神のみまえに良いことであり、また、みこころにかなうことである。
2:4 神は、すべての人が救われて、真理を悟るに至ることを望んでおられる。
2:5 神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである。
2:6 彼は、すべての人のあがないとしてご自身をささげられたが、それは、定められた時になされたあかしにほかならない。
2:7 そのために、わたしは立てられて宣教者、使徒となり(わたしは真実を言っている、偽ってはいない)、また異邦人に信仰と真理とを教える教師となったのである。
2:8 男は、怒ったり争ったりしないで、どんな場所でも、きよい手をあげて祈ってほしい。
2:9 また、女はつつましい身なりをし、適度に慎み深く身を飾るべきであって、髪を編んだり、金や真珠をつけたり、高価な着物を着たりしてはいけない。
2:10 むしろ、良いわざをもって飾りとすることが、信仰を言いあらわしている女に似つかわしい。
2:11 女は静かにしていて、万事につけ従順に教を学ぶがよい。
2:12 女が教えたり、男の上に立ったりすることを、わたしは許さない。むしろ、静かにしているべきである。
2:13 なぜなら、アダムがさきに造られ、それからエバが造られたからである。
2:14 またアダムは惑わされなかったが、女は惑わされて、あやまちを犯した。
2:15 しかし、女が慎み深く、信仰と愛と清さとを持ち続けるなら、子を産むことによって救われるであろう。

先週からパウロの牧会書簡のテモテへの第一の手紙が開かれてきた。連続講解によって、本年の主題である奉仕と献身について語る。今年も広島、長崎の原爆記念日を終え、終戦記念日が近づいた。毎年8月を迎えると戦争関連の本を手に取り、教会・信仰と戦争を考える。このことは後で述べたい。

Ⅰ.神と人との秩序(4-7節)
神様は秩序と平和の神である(Ⅰコリント14:33)。神様が先ず求めておられる秩序は、人間と神様との関係を回復させることである。アダムとエバの陥罪、エデンの園からの追放以来、人は神様から遠く離れてしまい、神様を認めることは困難になった。イエス様がこの世に人と変わらない姿で生まれたのは、私たちが神様を受け止められるためである。今も聖書を通して、イエス様を見、イエス様に聞き、イエス様に触れることができる。イエス様だけが仲保者として神様と人との間に立って下さる。神様としての神性、罪以外は人と同じの人性を持たれた。真の神、真の人として唯一の御方である。私たちの罪のあがないとしてご自身をささげ、私たちの救いを成就された。この御方への信仰によって、私たちは救いの恵みに与ることができる。ここに神様と全ての人との間に新しい秩序が生まれた。永遠につながる神様の祝福である。

Ⅱ.男女両性の秩序(8-15節)
8節以下は男女がそれぞれかくあるべきとの教えが記されている。2千年前の倫理、慣習をそのまま現代に当てはめることはできない。聖書の適用ということでは変化の大きい部分である。現在は、性別を越えて男女平等が当然である。男性は争い事から離れて祈るべき、女性は過度に飾らないという精神や理念は今も当てはまる。男女が互いに補い合い、秩序を守ることは神様の変わらない御心である。

Ⅲ.国家の秩序(1-3節)
2:1はローマ13:1につながっている。ローマ13:1は立てられた権威に従う、2:1は王や支配者のために祈ることが記されている。信仰者は基本的に模範的市民として歩み、立てられた権威が正しい政治を行うように祈る。支配者が間違った道を歩むのであれば反論し、行動で示すこともある。使徒4:19で、ペテロとヨハネはイエス様の教えを押さえつける指導者に、人にではなく、神様に従うと宣言した。やがて初代教会はローマ皇帝礼拝を拒み、正しい信仰を貫く。以降、信仰の戦いの歴史は繰り返されていく。M・ルターは万人祭司を語ったが、カトリック批判のみならず祭司としての責務も述べている。私たちは政治が御心に従ってなされるように、執り成す祭司としての働きを担っている。信仰者は神様の御心を知りうる者として社会の秩序に責任がある。指導者の施政のために祈り、正しいことは支持し、正しくないことは不支持を表明する。

神様は無秩序で不可解な神様ではなく、秩序に富んだ御方であるように、私たちにも秩序を諭される。イエス様による歩みは、私たちが悪と自己中心を離れ、信仰によって社会、家庭あらゆる場所で正しい道に進むことである(Ⅰテサロニケ5:10-11)。