(1)しかし、苦しみにあった地にも、やみがなくなる。さきにはゼブルンの地、ナフタリの地にはずかしめを与えられたが、後には海に至る道、ヨルダンの向こうの地、異邦人のガリラヤに光栄を与えられる。
(2)暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った。
(3)あなたが国民を増し、その喜びを大きくされたので、彼らは刈入れ時に喜ぶように、獲物を分かつ時に楽しむように、あなたの前に喜んだ。
(4)これはあなたが彼らの負っているくびきと、その肩のつえと、しえたげる者のむちとを、ミデアンの日になされたように折られたからだ。
(5)すべて戦場で、歩兵のはいたくつと、血にまみれた衣とは、火の燃えくさとなって焼かれる。
(6)ひとりのみどりごがわれわれのために生れた、ひとりの男の子がわれわれに与えられた。まつりごとはその肩にあり、その名は、「霊妙なる議士、大能の神、とこしえの父、平和の君」ととなえられる。
(7)そのまつりごとと平和とは、増し加わって限りなく、ダビデの位に座して、その国を治め、今より後、とこしえに公平と正義とをもってこれを立て、これを保たれる。万軍の主の熱心がこれをなされるのである。                                                           イザヤ9:1~7

「いつも三月花の頃、御前十八わしゃ二十、死なぬ子三人みな孝行、使って減らぬ金百両、死んでも命がありますように」、この句の厚顔さに驚く反面、お互いの人生において出会う苦難の厳しさを改めて深く思い知らされています。今日は第二アドベントです。「平和の君」として誕生された主イエスに思いを馳せてみたいと思います。
Ⅰ.平和の神
世界は平和とはほど遠い方向に向かいつつあります。私たち自身も思い煩い、取り越し苦労、不安、心配などに襲われることが幾たびあることでしょうか。そのような状況の中に神が主イエスを「平和の君」として与えて下さったとは何という慰めであり、希望でありましょうか。「平和」とは均衡のとれた、安定した状態を意味しています。パウロは「平和の神があなたがた一同と共にいますように」(ローマ15:33,Ⅱコリント13:11、ピリピ4:9)と、平和の神の臨在を記しています。「どうか、平和の神ご自身が、あなたがたを全くきよめて下さるように。また、あなたがたの霊と心とからだとを完全に守って、わたしたちの主イエス・キリストの来臨のときに、責められるところのない者にして下さるように」(Ⅰテサロニケ5:23)。平和の神は「霊と心とからだ」の一体性を守って下さるお方なのです。
Ⅱ.平和の君
「平和の君」は「苦難の僕」でもあります。「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で,病を知っていた」(イザヤ53:3a)。主イエスは人類の罪を一身に負い、贖いの死を遂げて下さいました。「神は唯一であり、神と人との間の仲保者もただひとりであって、それは人なるキリスト・イエスである」(Ⅰテモテ2:5)、「キリストは新しい契約の仲保者なのである」(ヘブル9:15)。パウロは「キリストはわたしたちの平和であって、二つのものを一つにし、敵意という隔ての中垣を取り除き、ご自分の肉によって、数々の規定から成っている戒めの律法を廃棄したのである。それは、彼にあって、二つのものをひとりの新しい人に造りかえて平和をきたらせ、十字架によって、二つのものを一つのからだとして神と和解させ、敵意を十字架にかけて滅ぼしてしまったのである。」(エペソ2:14~16)。平和の君イエスは、人々に「平安あれ」(マタイ28:9、ヨハネ14:27)、「安かれ」(ヨハネ20:19、21,26)と声をかけられました。
Ⅲ.平和の人
「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」(マタイ5:9)。平和の君は私たちが「平和の人」であることを願っておられます。
「主よ、わたしを平和の器とならせてください。憎しみがあるところに愛を、争いがあるところに赦しを、分裂があるところに一致を、疑いのあるところに信仰を、誤りがあるところに真理を、絶望があるところに希望を、闇あるところに光を、悲しみあるところに喜びを。ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分のからだをささげて死ぬことによってとこしえの命を得ることができるからです。」        (聖フランシスコの平和の祈り)