聖 書 イザヤ42:1~4、マタイ12:18~21
(1)わたしの支持するわがしもべ、わたしの喜ぶわが選び人を見よ。わたしはわが霊を彼に与えた。彼はもろもろの国びとに道をしめす。
(2)彼は叫ぶことなく、声をあげることなく、その声をちまたに聞えさせず、
(3)また傷ついた葦を折ることなく、ほのぐらい灯心を消すことなく、真実をもって道をしめす。
(4)彼は衰えず、落胆せず、ついに道を地に確立する。海沿いの国々はその教を待ち望む。

マタイ12:18~21

(18)「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。
(19)彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。
(20)彼が正義に勝ちを得させる時まで、いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。
(21)異邦人は彼の名に望みを置くであろう」。

今年も本日からアドベント(待降節)を迎える。アドベント(接近する)は12月25日前の4つの日曜日を含む期間である。その意義はキリストの降誕を通して、神様の真理の光がこの世の闇に輝きだしたことを思うと、ひとしお感慨深い。単にキリストの誕生という過去の歴史的事実を記念するだけでなく、初代教会においては特にキリストの再臨という希望の約束を待ち望むときでもあった。アドベントわたしたちもこの期節に、神の国と神の支配がやがて世界にもたらされるという、明るい未来に望みをかけた信仰の姿勢を持ち続けよう。
旧約聖書にイエス・キリストという記載はありません。しかし救い主がやって来られるというインマヌエル預言は多数ある。有名なのはイザヤ書7:14、9:6だ。預言者イザヤは42章でメシヤ像に触れ、わたしたちはこの箇所を新約でマタイが12章で引用していることに目をとめ、救い主イエス・キリスト様の特色について学ぶ。

1. 神のみこころにかなう、愛するもの
イエス様は父なる神様にとって、心にかなう、愛する者だった。マタイ12:18に「見よ、わたしが選んだ僕、わたしの心にかなう、愛する者。わたしは彼にわたしの霊を授け、そして彼は正義を異邦人に宣べ伝えるであろう。」とある。わたしが選んだ僕とは、父なる神様がご計画を遂行するために選び、用いようとする器ということだ。イエス様が宣教に先立ってバプテスマのヨハネからバプテスマを受けられたとき、天から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。(マタイ3:17)という声が聞えた。そのとき私の霊を授けると仰せになった神様は「天が開け、神の御霊がはとのように自分の上に下」(マタイ3:16)らせたとある。
さらにイエス様がペテロとヤコブ、ヨハネを連れて高い山に登られたときも、イエス様は神の子の輝くようなお姿に変わって、雲の中から「これはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である。」(マタイ17:5)という声がしたとある。神様は人の救い主として最もふさわしい心にかなう、愛する者をあえて地上に遣わされた。

2. へりくだって世に現われたかた
イエス様は別称で「平和の君」(Prince of peace)と呼ばれる。それを象徴するかのように「彼は争わず、叫ばず、またその声を大路で聞く者はない。」(19)救い主はおのれを低くして…十字架の死に至るまで従順であられた。降誕と成長のありさまは讃美歌「馬槽の中に」の詞にも歌われているが、へりくだられて世に現れて三十三年の短いご生涯を謙遜に歩まれた。

3. 弱いものをあわれみ救うかた
主はあわれみ深いお方だった。「いためられた葦を折ることがなく、煙っている燈心を消すこともない。」(20)痛み傷ついた葦はたやすく折れやすい。消えかかり煙い灯心も役に立たないものだ。そのような人から見放され弱く脆いものだからこそ、主はひたすらあわれみ助けずにはおられない。マタイ12章のすぐ前の箇所にはイエス様は片手のなえた人を安息日にいやすなら、それを口実に訴えようしたパリサイ人を尻目に、その人を堂々といやされる。律法を振りかざして弱者を食い物にする彼らに厳しく、弱いものを自分が犠牲になっても守り通された。
ルカ7章のナインのやもめの話がしきりと思い出される。ひとり息子を葬りに行こうとする母親を見たイエス様は「深い同情を寄せられ」(13)ただ一言「泣かないでいなさい」と声をかけられると、棺に手を置き死んだ息子を生き返らせた。
当時その病気にかかったせいで社会的な差別や冷遇される人々がいた。水腫は体内にリンパ液が多量に溜まりむくむ病気で、神からのろわれた病気とされた。誰もが触れたがらない水腫を患った人を、お言葉一つでいやしを行えるイエス様はあえて「抱いていやし」(ルカ14:4/新改訳)てくださった。その人は深く慰められたに違いない。またツァラアトも差別を受けた病気だ。感染もするので忌み嫌われた。この病気にかかった人がみそばにきたときも、「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして彼にさわり」(マル1:41)いやされた。イエス様は時に応じて、その人に本当に必要な心とからだのいやしを与えるだけでなく、全人的に罪咎から救ってくださり、負い目を取り去ってくださる。