聖 書:マタイ4:1~11

(1)さて、イエスは御霊によって荒野に導かれた。悪魔に試みられるためである。
(2)そして、四十日四十夜、断食をし、そののち空腹になられた。
(3)すると試みる者がきて言った、「もしあなたが神の子であるなら、これらの石がパンになるように命じてごらんなさい」。
(4)イエスは答えて言われた、「『人はパンだけで生きるものではなく、神の口から出る一つ一つの言で生きるものである』と書いてある」。
(5)それから悪魔は、イエスを聖なる都に連れて行き、宮の頂上に立たせて
(6)言った、「もしあなたが神の子であるなら、下へ飛びおりてごらんなさい。『神はあなたのために御使たちにお命じになると、あなたの足が石に打ちつけられないように、彼らはあなたを手でささえるであろう』と書いてありますから」。
(7)イエスは彼に言われた、「『主なるあなたの神を試みてはならない』とまた書いてある」。
(8)次に悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華とを見せて
(9)言った、「もしあなたが、ひれ伏してわたしを拝むなら、これらのものを皆あなたにあげましょう」。
(10)するとイエスは彼に言われた、「サタンよ、退け。『主なるあなたの神を拝し、ただ神にのみ仕えよ』と書いてある」。
(11)そこで、悪魔はイエスを離れ去り、そして、御使たちがみもとにきて仕えた。

 

本年は4月21日がイースター(復活日)である。先週の水曜日は「灰の水曜日」と呼ばれ、この日からイースターまでの40日間(この間の聖日6日分を除く)をレント(受難節、大斎節、四旬節)と呼ぶ。棕櫚の主日や受難週は守られているが、日本のプロテスタント教会は典礼色の強い教会以外はレントに着目してこなかった。普段から主の復活日、受難を覚えると言うが、レントは私たちの信仰、霊性を顧みる機会である。

Ⅰ.レント:信仰の更新
レントとは何か。初期の教会からイエス様の十字架の苦しみをしのび、自らを省みる時として持たれてきた。信仰者は信仰を振り返り、求道者は受洗準備をする。レントが始まる日を「灰の水曜日」と名付けられたのは、ちり灰にまみれ悔い改めることから来ている(ヨブ2:8他)。レントへの招きの言葉『したがって、全会衆はイエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しとを思い起こし、洗礼によってすでに与えられている信仰を更新しなければなりません。そこで私は、み名によって、この聖なるレントへとあなたがたを招きます。自らをかえりみ、悔い改めと祈りと断食と愛の献げ物によってこの期節を守りましょう。神のみ言に親しみ、これを味わいつつ、切に祈りましょう。』アメリカ合同メソディスト教会式文抜粋。この時、私たちは信仰を新たに整える時として過ごそう。

Ⅱ.レント:荒野の40日間
レントの始まりに開かれる聖書箇所にマタイ4章のイエス様の荒野の誘惑がある。40日間の断食の祈りになぞらえられる。直前はイエス様が、緑豊かなヨルダン川で受洗されている。天が開け聖霊が降り、神様の声が響く美しい光景である。一転して岩と砂の荒涼とした荒野になり、悪魔が登場する。イエス様であっても肉体の限界の時であった。第一には物質への試みであった。私たちは日々の心遣いに心塞がれてしまいやすい。神様は物質も、霊的にも必要を満たされる。第二には使命への誘惑である。私たちには各々神様から託された働きがある。家庭、学校、社会で働きに疲れも覚え、もっと良い別のものという誘惑がある。イエス様の救い主の使命さえ悪魔は揺るがそうとした。私たちは神様からの確信に固く立つ。第三には支配への欲望である。あなたの思い通りにさせようということが悪魔の最後の試みであった。人間の奥底にある究極の願いであろう。

Ⅲ.レント:誘惑を乗り越えて
イエス様は申命記6・8章、詩篇91篇11・12節の御言によって悪魔に勝利された。私たちは誘惑に陥りやすく、無防備である。悪魔に打ち勝つために特別な方法、力が必要ならば私たちにはできないが、御言を用いることは年令も状態も関係ない。御霊の剣・神の言(エペソ6:17)は誰でも即座に用いられる。ヤコブ4:7~10には、悪魔への勝利、神様への接近、神様による祝福が記されている。誘惑、試練は誰にもある。そこで立ち止まって、深く祈り、御言を思い、主によって勇気をいただいて立とう。御言と祈りの前に悪魔は逃げ去る。

復活日までの40日間を改めて恵みの機会として過ごそう。