聖 書:マルコ10:13~16

(13)イエスにさわっていただくために、人々が幼な子らをみもとに連れてきた。ところが、弟子たちは彼らをたしなめた。
(14)それを見てイエスは憤り、彼らに言われた、「幼な子らをわたしの所に来るままにしておきなさい。止めてはならない。神の国はこのような者の国である。
(15)よく聞いておくがよい。だれでも幼な子のように神の国を受けいれる者でなければ、そこにはいることは決してできない」。
(16)そして彼らを抱き、手をその上において祝福された。

 

今朝は新約聖書からの本年度の教団

聖句である。子どもたちが信仰を持ち、次代を担うようにとの願いがある。本日は子どもの日であり備えられていた思いがする。

Ⅰ.子どもたちへの祝福
子どもたちの祝福を祈るのはどの時代、どの世界にも共通である。生きていくことが厳しい時代、子どもはなおざりにされていたとも言える。今のように医療も、生活も整っていなかったので子どもの死亡率は高かったことだろう。安産祈願、子育て守護の寺社は全国にたくさんある。現在も戦争、紛争、飢饉等で子どもたちが安全でない地域もある。日本では子どもの環境は整っているかに見えて、家庭内暴力、いじめの問題など違う意味での受難を覚える。この箇所で子どもたちはイエス様の元に連れられて来た。これは最高、最善のことである。弟子たちがこれを止めようとしてイエス様はお怒りになった。

Ⅱ.大人たちへの怒り
イエス様は憤られた。普通の怒るという語よりも強い言葉が使われている。しかも、イエス様が憤られたのはこの箇所だけである。弟子たちが子どもたちを押し止めたというのは大変な間違いを犯したということである。イエス様は神の国はこのような者の国であると言われた。原語では「このような者は神の国に属する」あるいは「神の国はこのような者たちによって構成されている」とも訳される。幼子だけであれば、そうでない者たちは無関係になってしまうが、「幼な子のように神の国を受け入れる者」が神の国の民である。幼子全てがそうではないが、総じて神様の前に素直である、謙遜であることが神の国に入るために不可欠な要件となる。

Ⅲ.神の子への導き
私たちは神様にかなう素直さ、謙遜さを持っているかよくは解らない。私たちは神様を信じる時に狭い門を通ってきた(マタイ7:13-14)。身を屈め、頭を低くして神様を信じている。幼子としての要件を満たしたからこそ、信仰を認めていただき神の子とされた(ガラテヤ3:26)。私たちは今、神の子であるからと言ってもう十分なのだろうか。神様に召し出された者として神様に相応しく歩むべきである。コロサイ3:12~17には、神様に属するご性質を私たちも受け継ぐべきことが記されている。あわれみ、慈愛、謙遜、柔和、寛容、忍耐、赦しを持ち、愛と平和に支配されるようにと勧める。神様の子どもとされたならば親である神様のご性質を受け継ぎ、表していくものとされよう。

私たちは聖霊の働きによって頑なな心が砕かれ、幼子のような素直さ、謙遜さをいただいた。神様は私たちの心を喜ばれ、救いに導いて下さり、私たちは神の子とされた。この救いは回復の道であり、神のかたちに造られた私たちが神様を表す者とされる。神様のご性質を新しい衣としてまとわせていただき、神様の香りを放つ者とされよう(Ⅰヨハネ3:1-3)。